a.金草鞋の坂東順礼の最近のブログ記事

金草鞋の坂東巡礼

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〇H23.2.17 追記 坂東順礼独案内図の詳細をアップ 「坂東順礼独案内図」の解説を、カテゴリの「6.文献調査結果 h.坂東順礼独案内図にアップしました。内容が良く似ていますので、そちらも参考にして下さい。

〇H23.1.22 追記  慈光寺の近くの「内が久ボ」の地名について

 マルセさんより次の連絡あり。「武蔵国独案内図(下図、江戸後期)から、「田中」と「モゝ木」の間に「内が久ボ」っぽく見える、それらしい地名がある。「関ホリ」、「関堀」です」

 (書庫整理係のコメント)
 これまで解読できなくて、距離から推測し「田中?」としていましたが、下図では独案内図に描かれている「内が久ボ」に似ています。しかし、良く見ると、文字としては「関ホリ」ですね。この絵は版画たから、彫刻の関係でこのようた字体なっていることが推察されます。なお、「関堀」と「田中」は隣接した村落で、現在も地名としてあります。これで課題が一つ解決しました。マルセさんありがとうございました。

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〇H23.1.18 追記    清水寺~御宿間の「ウかせ」の地名について
 マルセさんより次の連絡があり。「古地図「関東十九州路程便覧(下図、喜永元年(1848)明治維新の20年前)から考えると、独案内に書いてあるのは「ナカセ(長志)」の誤字と考えるのが一番妥当かと思われる。迅速図で見ると、長志は街道沿いのそこそこまとまった集落に見えます」

 (書庫整理係のコメント)
下記地図から、H19.12.29にあったコメンの「寄瀬」ではなく、清水寺から御宿に南下するルート上であることは間違いないようで、現在も長志(ながし)の地名はあります。独案内や金草鞋の「うかせ」と下図の「ウルセ」と読める文字解釈については、引き続き検討していきますが、①長志か下布施あたりということと、②海岸ルートでなく南下ルートであることは間違いないことが明らかになりました。 *南下ルートと海岸ルートについては、カテゴリーの「提案ルートの清水寺~那古寺」を参照
なお、

地元のいすみ市生涯学習課に、下図を確認していただいたところて゜は、「このような地名はない、布施では」の回答をいただきました。

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〇H20.9.30 追記  笠森寺手前の飯野について(続) 
 長柄町役場に「飯野」の地名存在を問い合わせたところ、見当たらないとのことでした。これとは別に、長柄町史(本編)を調べてみましたが在りませんでした。飯尾が妥当なところかもしれません。飯尾については、山根村字飯尾、飯尾不動堂、伊八の竜の彫刻の記述が。叉、飯尾の由来は、鎌倉時代以降の名族であった飯尾氏の居住、の記述もありました。


 〇H20.8.14 追記 笠森寺手前の飯野について
H19.12.29のマルセさんからのアドバイスより、飯野は矢野(長南の別名)と想定していましたが、古地図「関東十九州路程便覧」(下図、喜永元年(1848)、明治維新の20年前)において「飯ノ」の表記があり、別地点であるようです。
 ルートは、大網と土気の間を抜けていることから、東金~善安寺(小西、正法寺あり)~昭和の森~真名ゴルフ~国府里~飯尾寺~桜台~長柄町役場~高山~大庭~笠森寺あたりかと思われます。
 肝心の飯野については、飯尾寺が推測されますが不明です。
 十辺舎一九の小湊参詣では、「六地蔵の項」において、「このところより小西の妙香山正法寺とゆく道あり。これは法華宗の談所にてにちこく上人開基のところなり」と記述されており、このようなルートもあったことを裏付けるものです。

 引き続き調査が必要ですが、金草鞋や独案内において「大網」を経由していないことと、今回のルートは東金~笠森寺の直線ルートに近いことは、注目すべき事項となります。

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・線を引くとこんなルートになりますが、現地確認が必要ですね。

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〇H19.12.29 マルセさんからのアドバイス
a.東金~笠森間の「いヽの」は、矢野(長南)であろう。
b.独案内の清水~御宿間の地名を「下布施」としていると推察しますが、これは「与りせ」で「寄瀬(大原の旧称)」ではないでしょうか。寄瀬村新田大原が発展して、大原宿となったような記述が歴史の道調査報告にあります。
 巡礼ルートとしては、下布施ルートも大原ルートも両方使われていたとは思います。
<書庫整理係のコメント>
a.東金~笠森間の「いヽの(飯野)」については、富士見13州輿地全図の内安房・上総・下総三国図(天保14年、人文社)において、長南と矢野が併記されていることから、「いヽの」が「矢野」であれば理解できるところです。
b.清水~御宿間の「寄瀬」については、御宿から2里という距離は一致しておりOKですが、どうして「与りせ」が「うかせ」のような文字になっているのか? 「寄瀬」の寄の漢字にウカンムリと可(か)があることから「うかせ」のようなの文字表記になったのか、単純な誤記なのか?  皆さんなりのご判断を。


 「方言修行金草鞋第十篇 坂東順礼」の順礼ルート概要  H19.5.5
< 筆者のコメント >
・記述されている地名及びルーは、「坂東順礼独案内(江戸両国大黒屋平吉板)とほぼ一致しています。
・年代的にみると、当「方言修行金草鞋第十篇 坂東順礼」は西暦1817年(明治維新の51年前)です。一方、「坂東順礼独案内(江戸両国大黒屋平吉板)」は江戸末期ということですが出版年は不明です。
・いずれにしても、この両者がほぼ一致していることからみて、このルートは坂東順礼の一般的なものであったと推察されます。
・番外札所に関しては触れられていませんが、大山、日光、香取神宮、瀧の不動、猿田神社、鹿野山には寄っています。 
・江ノ島への参拝は記載されていません。

< 概 要 >
1.著者  十辺舎一九  文政元年出版(西暦1817(明治維新の51年前))
2.出典  (故)柴田顕成氏の翻訳資料による。奥様から資料提供していただきました。
3.本文の記述内容において、巡礼ルートに関する事項を抜粋すると以下のとおりです。
①西国巡礼は第一より順にまいれども、坂東はいろいろいりくみて順にまわることなりがたし、このほんはそれゆへ観音の順にかまわず道順よきやうにまわるなればそのこころへて見たまうべし。
②十一番吉見の観音、これも吉見の岩屋という観音岩のうちにあり、これより中仙道の鴻巣へ出なり、岩槻の慈恩寺ゆきてももよし、この草紙には岩槻をあとへまわしたれば鴻巣より熊谷にいりる。
③中善寺より今市までもどり、それより大渡、不入、玉入、高内、八幡などなど打ちすぎて太田原の駅にいたる。
④村松は奥すじへゆく浜街道なり、この所より水戸の御城下にいづる、上町、下町とわかれいずれもいたって繁盛の御城下なり、それより笠間のご城下にいでて佐白へまいる。
⑤那古より岩井、保田にいたる、日本寺という石の五百羅漢あり、ここをすぎて百首、安房、上総の境それよりかなうざん上総の高倉寺なり。 (注、「かなうざん」は鹿野山のこと。叶山の記載もある。)
⑥八幡より市川、松戸、新宿それより奥州街道へ出て草加、越谷、春日部を打ちすぎて岩槻道へ入り岩槻の慈恩寺へまいるなり。これより草加へもどる。
⑦この慈恩寺ははじめ十一番の札所吉見でらより鴻巣へ出この慈恩寺へまいりてもよし、その道筋はここにしるす、あとにてもさきにても損なしおなじことなり。武蔵、吉見、鴻巣、古市、小室、岩槻慈恩寺。
⑧この順礼その順にはまはりがたし、ただ道順よきようにまいるべし。
⑨その他
 ・慈光寺は、11番の吉見寺より鴻巣へ出て慈光寺へ参ってもよい、損なし。武蔵吉見~中仙道(2里)~鴻巣~(0.5里)~古市~(3里)~小室~(2里)~岩槻慈光寺
 ・峰が先~金子 難渋のところ 
 ・大野→秩父のしまぶへ 
 ・水澤→榛名山(2里)
 ・野田~大久保~惣社  高崎~越後の三国通り御道
 ・大谷観音~徳二郎  宇都宮~日光への道   
 ・大澤~今市 上州の倉賀野~日光への御道 
 ・大田原~日光  日光北街道
 ・真壁 筑波~下野の宇都宮へ
 ・滑川→成田3里、平6里 
 ・津宮 藤の木あり  
 ・清水→大多喜3里  
 ・高倉寺→木更津3里~海上18里江戸へ


(文中の地図)

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(現在地図への置換え)  *浅草寺が発願寺

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(経過村落の内容)

〇H22.4.18 一部修正(独案内の内容を補記他)

〇H20.2.7
・説明欄に現在の村落名(地名)を追記しました。
・村落名(地名)の位置は、JRの駅を基点に表示することにしましたが、方位と距離はおよそです。叉、駅名そのもので表示した村落名(地名)においては、かっての宿場町と現在の駅前付近とは少し異なるケースもありますので、それなりに判断して下さい。
・寺・地名の欄は、出展資料の内容をそのまま記載しております。


・その1

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・その2

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・その3(完)

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