c.江戸期の滑川~銚子の最近のブログ記事

江戸期の滑川~銚子間

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         江戸期の滑川観音~飯沼観音間の雑学
 まえがき
 滑川観音~飯沼観音を結ぶ銚子街道は、江戸期には利根川沿いの幾つもの河岸を結びながら、物資の輸送、観光、巡礼道として大いににぎわいました。
 下記文献において、巡礼に関連すると思われる事項を、雑学としてピックアップしてみました。
 調査の結果、江戸期の滑川観音から飯沼観音間の巡礼ルートとしては、銚子街道(現在の国道356線)を使った「陸ルート」と利根川を使った「舟ルート」の二つのルートがあったことが分かりました。

<参考文献>
・「利根川図志」 著者 赤松宗旦  津本信博訳 株式会社教育社発行
・房総の歴史街道絵本 さいとうはるき 崙書房出版
・房総の街道繁盛記 山本鉱太郎 崙書房出版
・古街道を往く 千葉県企画部広報県民課 千葉県広報協会
・千葉の道千年物語 千葉日報 千葉県広報協会
・「富士見十三州輿地全図の内、安房・上総・下総三国図、天保14年(復刻版、人文社)

<参考事項> 利根川と船運について
 利根川は、承応3年(1654年、明治維新の214年前)までは埼玉県東部を南進して東京湾に流れ落ちていました。香取あたりは「香取の海」と呼ばれる沼沢地で、その先は常陸川といわれていました。江戸幕府はその流れを、60年余の難工事の末に変えました。これで利根川は江戸川と結ばれ、江戸への物資輸送の大動脈となりました。また、軍事的には江戸を守る北の外堀としても機能しました。両河川の接続部には関宿があり、関所が設けられていました。
 明治になると外輪蒸気船が登場しました。明治23年には、利根運河(常磐自動車道が利根川を横断するところ~東武東上線運河駅先~江戸川の越谷ゴルフ場先)が開削され、航路が23km短縮し、東京~銚子間の行程が1日になり
ました。最盛期には1日100隻以上の船が通航しました。*利根運河は、昭和16年の洪水で通航不能です。

<参考事項> 利根川沿いの鉄道(JR成田線)について
 利根川沿いの銚子街道と利根川の水運が転機を向かえるのは、鉄道の開通です。明治30年~31年にかけて佐倉~成田~佐原間、昭和6年に佐原~笹川間、昭和8年に笹川~松岸間が開通しました。この鉄道開通により利根川の水運と同時に陸路も一挙にさびれていきました。
 なお、JR総武線(九十九里浜沿いの鉄道)の銚子までの延長は、明治30年で、銚子と九十九里浜沿いで採れる海産物の輸送を一手に引き受けることになりました。これにより、九十九里浜道とこれとつながる東京湾方面への道もさびれていきました。

*「利根川図志」は、埼玉県立埼玉図書館のデジタルライブラリーに掲載があり、インターネットで見ることができます。
 
1.「利根川図志」における巡礼に関する事項
 「利根川図志」 著者 赤松宗旦、安政5年(1858年、明治維新の10年前)初版、利根川流域の歴史・風俗・動植物などについて紹介する民族地誌です。

tonegawazue.JPG         出展 埼玉県立埼玉図書館デジタルライブラリー 

 

民族学の父柳田国男にも大きな影響を与えたといわれます。
 使われている流域の地図(第1図参照)は、「富士見十三州輿地全図の内、安房・上総・下総三国図、天保14年(1843年、明治維新の25年前)(復刻版、人文社)と一致しており、10年前に出版されたこの地図をベースにしていると考えられます。
 坂東巡礼の滑川観音から飯沼観音間に関連すると考えられる記載事項をピックアップすると次のとおり。 なお、(*)のところは筆者の補足追記事項です。

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第1図 「利根川図志」  滑川~香取  村落と街道

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第2図 「利根川図志」  香取~富川  村落と街道

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第3図 「利根川図志」  富川~銚子 村落と街道

a.大杉大明神
 *神が仮の坊主になり源義経公を助けた旨の縁起の趣意がのべられている。9月27日が祭り日。江戸期の巡礼記録において立ち寄っている例があることからピックアップした。
b.滑川観世音
 滑川村にある。滑川山竜正院という。坂東巡礼28番の霊場である。
本尊は十一面観世音、脇立ちは不動明王、毘沙門天である。
 「佐倉風土記」には次のようにある。承知7年(840年)定朝が彫ったという十一面観世音を安置してあり、長は一丈二尺である。竜正院と呼んだ。小田将治は、一寸二分の観音と地蔵像を、小田川の朝日が淵よりあげて、本尊の腹に収めた。はじめ将治は化女が自ら朝日と称して、粉河寺より来たのだという。また八十歳ばかりの老僧が衣をあんで水にひたしいたことを、感応して、後に二像を得たという。
 朝日が淵 本堂から一丁ばかり西の田圃の中にある。昔しはここが常陸と下総の境で、小田川の流れであったのではないだろうか。現在ではその淵瀬は変わりはて、草地となり、大きなしだれ柳が、六、七本あって、その下に碑がある。
c.夕顔観世音
 五郷村の樹林寺にある。霊験あらたかな観世音である。門の外に高い石坂があり、この石坂を逆さに向かって這いおりるときは、子供の病を除くこと ができるという。年来の願いによって、参詣する人は皆逆さに這いおりるのである。この寺はもと寿林寺と書いたのであろうか。・・・・
 *樹林寺は内陸ルートの近くにあり、道標もあることからピックアップした。
d.岩井不動
 岩井村にある。仁王門、本堂、鐘楼堂などがおごそかである。山の上から清水が落ちる滝口が数か所ある。四十八滝あるという。堂の後ろの方に大滝がある。・・・・・・・・・
 *坂東巡礼独案内図に入っている。
e.猿田大権現
 猿田村にある。
*坂東巡礼独案内図に入っている。
f.松岸
 銚子に往き来する旅人は、この河岸からあがる。歓楽街があって大変繁昌している地である。・・・・
 *舟による巡礼者の飯沼観音側の上陸地点。色町もあったようである。
g.飯沼観世音
 飯沼山円福寺は十一観世音(坂東二十七番)仁王門鐘楼(石垣)、本堂の額、円通殿(書は得水)、二重塔龍蔵権現(銅瓦)、石の華表がある。常芝居は今宮の芝町にある。・・・・
h.犬吠が崎
  海上砥(荒砥)がここから出るので、一名石切の浜ともいう。このところに胎内くぐりという岩窟があって浪うち際へ通りぬけ、岩山へはいのぼるたいへん危険なところである。・・・・・・
i.外川の浜
  ここは、昔、家が千軒あった漁場であつたが、今から八十年前に津波で家を流され、なくなってしまったが、今また家数が多くできて、大漁場となっている。・・・・・・・
j.椿の海
 今の干潟八万石というのがこれである。「香取志」に次のようにある。
 神宮から隔てること六里ほど、香取、匝瑳、海上の三郡の交わるところに接している。周囲十里あまり、この湖水は今は消滅して、田圃になっている。古老が伝えていうには、太古にはこのところはたいへん大きな椿の木があり、高さは数百丈、枝葉は三里に広がりわたり、花が咲くときは天は真紅に染まり、花が散る時は、錦を敷いたのではと疑うほどすばらしい。大神はいつもこの世に現れる。やがてこの椿の木も寿命がつきて、根ごと倒れてしまった。その根の跡が湖となった。だからこれを椿の海という。・・・・・・・

2.三社詣と銚子磯めぐり
  江戸期には銚子は一大観光地で、香取神宮、鹿島神宮、息栖神社をお参りする「三社詣」と、飯沼観音を中心に銚子の海岸部を一周する「磯めぐり」は大ブームでした。
  この三社詣と磯めぐりの道筋は、坂東巡礼の滑川観音~飯沼観音の巡礼ルートと重複するのことから、「利根川図志」に記載されている地図などを参考に整理してみました。
  なお、このルートは、陸を歩く「陸ルート」に対して、河を使っての「舟ルート」と言えるのではないでしょうか。

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             第4図 「利根川図志」  銚子浜磯巡りの図

a.三社詣と銚子磯めぐりの旅程概略
・3泊4日程度(船中で2泊?)
江戸小網町~(夜船)~行徳河岸~(木下街道を歩き、約38km)~木下河岸~(夜船、木下茶船)~津宮河岸(香取神宮)~(船)~松岸河岸~(歩き、約4km)~飯沼観音~(歩き)~銚子磯めぐり(歩き、約15km)~息栖神社~(歩き、約8km)~鹿島神宮~(船)~潮来~(夜船)~木下河岸~(船)~行徳河岸~(木下街道を歩き)~江戸小網町
*江戸小網町を早朝に出立し、その日の内に木下河岸に着く健脚者もいたようです。
・磯めぐりのルート 第4図参照   「利根川図志」から抜粋(一部追記)
b.参考事項
・木下茶船  全長7m程の屋形船、定員8名、5名集まれば出船、船中を寝食の場としました。延宝6年(1678)頃から営業し夜出て夜戻ることが多かった。  
・木下河岸  滑川観音より約15km上流で、木下茶船で栄えた。正徳年間(1711~)には20艘も。
・「アシカジマ」には、アシカがいたようで、「利根川図志」ではアシカについて詳しく解説しています。
・俳人芭蕉は、門人河合曾良と宗波とともに貞享4年(1687年)に鹿島詣をしています。深川の芭蕉苑~(舟)~行徳~(木下街道を歩き)~布佐~(夜舟)~鹿島です。

H19.10.3 追記   犬吠崎の「胎内めぐり」;に関して
 (銚子市教育委員会生涯学習課文化班より頂いた情報)
 現在「胎内めぐり」を実施した場所は、まだ残っております。しかし、岩盤崩落の危険性があるため、現在、立入禁止となり、そばに近寄れない状態となっております。

H21.10 追記 「胎内めぐり」について
H21.10、旅行で訪れた際に覗いてきました。柵があり立入禁止でしたが脇から入られたことからこっそりと。なぜか人が沢山いました。トンネル形状の穴(胎内)は残っていましたが、侵食(崩れ)が多い状況でした。過去には灯台下の波打ち際に遊歩道があったようですが、完全に侵食され残骸がところどころに。天気がよく波が穏やかだったことから、石飛びして一周してきましたが、危険ですので止めましょう。砥石に使えそうな石を1個拾ってきましたが、使えました。写真がなくてみません。


3.願主眞永が建立した銚子街道の道標
 銚子街道(現国道356号)の滑川観音から飯沼観音間には、願主眞永が天明3~4年(1784~5、明治維新の84年前)頃に建立した道標が、12基建っています。
 この道標には全て「飯沼観世音江何里」と飯沼観音までの里程が示されています。
 このことは、この時代には利根川に沿った巡礼道が存在し、大いに使われていたことを示しています。
 この詳細は、カテゴリー、文献調査結果、d.銚子街道の道標 を見て下さい。

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