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房総の街道

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房総の街道


1.はじめに
 坂東三十三ケ寺巡礼道検討の第1ステップとして、江戸時代に整備された房総半島の街道の内、同巡礼道に関係のありそうな街道・道をピックアップしてみた。
(参考文献)
 ・房総の街道繁盛記  山本鉱太郎  崙書房出版
 ・房総の歴史街道絵本 さいとうはるき 崙書房出版
 ・千葉の道 千年物語 千葉日報社
 ・千葉県の歴史散歩  千葉県高等学校教育研究会歴史部会 山川出版社
 ・「古街道を往く」   千葉県広報協会
 
2.房総の歴史
  街道について述べる前に、房総の歴史について概説しておく。
・古代、房総の地は、下総、上総、安房の三国に分かれ、それぞれの国府は現在の市川市国府、市川市市原、安房郡三芳村に置かれていた。これら房総三国は、大和朝廷の支配力が及ぶ東端にあり、防人としての兵員、蝦夷地に対する軍事基地への兵量の供給地となっていた。
 この時代における東海道の本道は、東京湾へ注ぐ幾筋もの河川を避け、三浦半島速水から木更津への海上の道であった。
この海上の道に近い木更津地域が上総、遠い(江戸には近い)地域が下総と呼ばれる由縁である。
・平安後期、関東に源氏が勢力を広げると、房総の地は千葉常胤、上総弘常らの支配下に置かれた。彼らは、源頼朝の鎌倉幕府開設に際し、その有力な支持勢力となった。
・鎌倉時代には、日蓮宗がこの地で勢いを得た。開祖日蓮は安房小湊の出身といわれ、房総半島各地に日蓮宗寺院を造営している。出身地には誕生寺があり今日も参拝が絶えない。
・室町、戦国時代には、房総の地も争乱に明け暮れ、その後秀吉の小田原征伐により1590年に千葉氏は滅び、新しい勢力分野に塗り替えられた。
・江戸時代に入ると、幕府は江戸の東の守りとして、佐倉藩をはじめ、関宿、勝山藩など多数の藩に房総半島を細分化し、旗本領も配置した。この時代の特色ある産業としては、牧畜と水産業があげられる。下総の小金と佐倉、安房の嶺岡に幕府の牧場があり、馬の品種改良も行われた。漁業は九十九里浜の地引網で代表されるように、上方から移住してきた漁民によって発展していった。また、この時代には、利根川の治水事業にも力が注がれ、利根川の流れは東京湾から太平洋(銚子)へと変えられた。これとともに水田開発と運河の開削が行われた。湿地であった椿海(総武本線干潟駅の北側付近)の干拓事業は大規模なものであった。幕末には伊能忠敬が出ている。

3.房総半島の道
・江戸時代の房総半島は、大消費地江戸への穀類、魚介類、薪炭、塩などの供給地として、また、東北・北海道から物資輸送(東廻海運)の中継地基地(銚子)として、さらには、江戸庶民の行楽地(坂東各寺詣、香取・鹿島・息栖の三社詣、成田山詣、日蓮の誕生寺詣、銚子の磯めぐり、小湊詣など)として多くの旅人が訪れており、街道、道、道標などが数多く整備された。
・房総半島に高い山はなく、200~300mの山が続く丘陵地帯が多いこともあり、薪炭などの生産のための山道を含めると、道は半島全域にわたり網の目のように広がっている。
 *房総半島の最高峰は円山町の愛宕山。408mは全都道府県の最高峰中最も低い。
・房総の道は、①参勤交代などに使われた江戸への主要街道 ②村々から物資を運ぶために主要街道に接続された生活・商業の道 ③銚子、館山、富津、木更津などの港に接続する道に大別される。
・房総半島の主要街道を整理すると、以下のとおりである。

①銚子街道(利根の流れに沿った道)
・木下~安食~矢口~滑川観音~神崎~佐原~香取~津宮~大倉~小見川~笹川~椎柴~松岸~銚子
・主に、現在の国道356号線の道筋である。
・利根川に沿っており、JR成田線も平行している。
・利根川流域で生産された物資を輸送する主要陸路であり、鹿島、香取、息栖の三社詣や銚子磯遊びをする旅人の道でもあった。
・街道沿いの村々は、物資輸送、遊覧、神仏詣などの利根川河岸として栄えた。
・坂東巡礼としては、28滑川観音と27飯沼観音を結ぶルートである。この街道に沿って観音像を浮き彫りにした石柱が12基立つ。天明3~4年(1784~5)頃に願主眞永が建立した道標で、「飯沼観世音江何里」と刻まれている。
・昭和8年のJR成田線の全線開通により、物資輸送路としての使命を終えた。
*鹿島、香取、息栖の三社詣や銚子磯遊びをする旅人は、江戸から船で行徳に出て、ここから木下河岸まで歩き(木下街道を)、ここから木下茶船(8人乗り)にて利根川を下って目的地へ向かった、夜船が多かったようである。
*木下茶船による飯沼観音詣や銚子磯めぐりにおける上陸地点は松岸で、ここから陸路を銚子へと向かった。

②銚子道(九十九里浜に沿った奥の道)
・銚子~松岸~飯岡~旭~井戸野~八日市場~光~横芝~松尾~成東~波切不動~東金~大網
・主として、現在の国道126号線の道筋である。
・九十九里浜に並行しており、JR総武本線(銚子~東金)と、その先はJR東金線(東金~大網)が並行している。
・鰯の〆粕や干鰯などが八日市場、東金、大網に運ばれた魚の道、物資輸送路であった。
・坂東巡礼としては、27飯沼観音と31笠森寺、29千葉寺を結ぶルートである。
・明治30年の総武本線開通により、物資輸送路としての使命を終えた。
*九十九里浜は、土地の隆起により浜が沖に広がっており、百年に1本の割合で沖側に道路が出来ているようである。成東の浪切不動は波打ち際であった形跡がある。
*「上総の逃げぼう」といって、大網あたりから駆け落ちする者は、この道を銚子へ逃げたとか、魚の臭いだけでなく、色っぽいお話しのあった道でもある。

③九十九里道(九十九里浜に沿った中の道)
・飯岡~旭~八日市場~野栄~横芝~蓮沼~成東~伊能忠敬誕生地~白子~上総一ノ宮
・ほとんどが県道122号線(飯岡~片貝)、123号線(片貝~一宮)の道筋である。
・九十九里浜に並行しており、銚子道の一本海側の道で中道と呼ばれる。また、幕府直轄領を検分する役人が通ったことから、御検見往還とも呼ばれる。
・明治時代に、海岸沿いに新道(県道飯岡一宮線、九十九里ビーナスライン)が造られるまでは、九十九里浜の主要道であった。
・坂東巡礼としては、27飯沼観音と31笠森寺、29千葉寺、30清水寺を結ぶルートである。
・蓮沼において、御成街道の延長といえる直線の御成新道(県道124号、緑海東金線)がつながっている。
・上総一ノ宮は、九十九里浜の最南端であり、JR外房線は明治30年に開通している。

④房総東往還(房総半島外廻り)
・千葉市浜野~土気~大網~茂原~上総一ノ宮~大原~御宿~勝浦~安房小湊~天津~安房鴨川~江見~和田~南三原~九重~館山
・県道66号線(浜野~鎌取)、20号(鎌取~大網)、国道128号線(大網~館山)の道筋である。
・JR外房線(浜野~安房鴨川)、内房線(安房鴨川~館山)が並行している。
・房総往還(東京湾沿いの街道)の東側にあることから房総東往還と呼ばれる。
・九十九里浜の干鰯など外房の生産物を江戸へ運ぶための生活道であった。又、房総小大名の参勤交代の道でもあった。
・外房の断崖絶壁の下を行く道は、現在も隧道の多い道で、当時の旅人には困難な道であったようだか、「松島の岩山に似たり」と日本三景の松島に称される程の絶景の道でもある。十辺舎一句の「こみなと参詣房総往来記(文政10年)」に記述されているように、江戸庶民の参詣(一大観光地)でもあった。
・坂東巡礼としては、27飯沼観音、31笠森寺、33那古寺とを結ぶルートである。
*房総半島には、日蓮宗開祖の日蓮の誕生寺、修行した清澄寺、檀林など日蓮宗関係の寺院が多い。

⑤房総往還(房総半島内廻り)
・市川~八幡~中山~船橋~幕張~千葉~蘇我~浜野~五井~木更津~富津~佐貫~金谷~勝山~岩井 ~館山
・国道14号線(市川~千葉)、16号線(千葉~館山)の道筋である。
・JR総武本線(市川~千葉)、内房線(千葉~館山)が並行している。
・この東京湾沿いの浜通りは、かつては房総諸藩が江戸との往来に利用した公用の道で、また江戸へ諸物資を運ぶ輸送路であった。近世後期には海防関係社の通行及び江戸内湾防衛線として重要な役割を果たしていた。
・曽我、木更津、八幡、保田、金谷、勝山などの幕府指定の港も多く、江戸への物資輸送の港町として賑わった。木更津では五大力船による魚類輸送も多かった。
・上総湊から那古間は断崖絶壁が海に落ち込んでいるところが多く、隧道の多い当時の旅人には困難な道であったようだ。今でも、トンネルは歩いて通るのは遠慮したくなる狭さで、赤色点滅灯は必携である。旧道の隧道は落盤が多く通行は不可能である。
・坂東巡礼としては、33那古観音、30高蔵寺、29千葉寺、13浅草寺などとを結ぶルートである。
*船橋は、成田街道と御成街道の起点宿場で交通の要衝であった。房総各地からはもとより江戸からも旅人や物資が集まり、宿場町、商業町として栄えた。

⑥房総街道(上総丘陵を抜ける道)
・浜野~潤井戸~追分~針ケ谷~刑部~長南~市野々下~大多喜~佐野~松野~勝浦
・この道は房総往還の浜野から内陸部に入り、半島の背骨を南下して大多喜へ。さらに、外房の勝浦に延びている。
・参勤交代の道であり、江戸への道はよく整備されているが、針ケ谷坂、棒坂、小土呂坂などの難所が旅人を苦しめた。
・日蓮上人誕生の地である小湊や外房の磯を訪れる、信仰と観光の道でもあった。
・坂東巡礼としては、31笠森寺の脇を通る道で、29千葉寺、32清水寺などとを結ぶルートである。
*起点の浜野は、九十九里一帯や東上総地方の年貢米などを江戸へ送る湊として栄えた。江戸の小網町と結ぶ船も出て、旅人で賑わった。
*半島の中央部に位置する大多喜は、交通・軍事の要衝の地で、当時は房総最大の大名が配されていた。

⑦鹿野山道(山岳信仰の道)
・木更津桜井~中烏田~中島~福岡~鹿野山~鳥居峠~更和~関尻~大和田~関尻~木の根峠~金束~寺門~坂東~鴨川
・烏田川(桜井~中島)、小糸川(中島~鹿野山)、湊川(更和~木の根峠)、加茂川(木根峠~加茂川)などの流れに沿っている。
・鹿野山は標高353m、清澄山、鋸山と並び房総三山に数えられる。この山頂にあるのが神野寺で山岳信仰の人々を集めていた。十辺舎一九の坂東巡礼、房総道中記においてもここに参詣する道順になっている。参詣ルートは福岡(木更津)方面からの北参道、佐貫方面からの西参道、久留里、西粟倉方面ルートからの東参道、桜井(木更津)からの信仰の道などがある。北参道の起点である木更津には江戸への船便もあり、利用者が多かったようである。
・坂東巡礼としては、上総湊(百首)~更和~鹿野山~30高蔵寺~木更津のルートとして使われたようである。

⑧久留里道(半島中央への道)
・木更津~祇園~清川~横田~馬来田~小櫃~久留里
・国道409号(木更津~馬来田)、国道410号(馬来田~久留里)の道筋である。
・小櫃川の流れとJR久留里線に沿っている。
・久留里は城下町で、沿道で集積された米、薪炭、酒などはこの道を運ばれ、木更津港から五大力船で江戸へ運ばれた。
*五大力船は約20トン、江戸までは風が良ければ3時間ほど、船頭は2人。
*小櫃川には川舟が通い、米などを積み久留里から木更津まで1日で下ったようである。

⑨渓谷への道(房総の険①)
・黄和田畑~筒森~小田代~三又~市川~三叉~小谷松~大多喜
    *小田代~栗又~会所~清澄山      *筒森~御嶽山~麻綿原高原~清澄山
・黄和田畑~小田代~大多喜は国道465号、小田代~栗又~会所は県道178号線の道筋である。筒森~御嶽山~麻綿原高原~清澄山は山道である。
・内陸を結ぶ山の道。養老渓谷の道。房総最大の滝「粟又の滝」が観られる。
・筒森~御嶽山~麻綿原高原~清澄山は、十辺舎一九の房総道中記にも出てくる道。
・清澄山にある清澄寺は、日蓮宗を立宗した日蓮が修行を積んだ寺。境内東側の「旭の森」で「南無妙法連華経」の題目を唱えたという。
清澄山からの眺望は、海に迫る房総の山なみ、眼下に広がる大海原と見渡せ、雄大そのもの。真言宗を立宗した空海も室戸岬で広大な太平洋を視ながら修行したとのこと、「広大な海」が共通するキーワードのようである。
・麻綿原高原と清澄山は、江戸時代も今も名勝観光地である。

⑩渓谷への道(房総の険②)
・久留里~広岡~高水~亀山~折木沢~蔵玉~黄和田畑~清澄温泉~四方木峠~清澄~浪切不動~天津
・国道410号(久留里~広岡)、国道465号(広岡~黄和田畑)、県道81号(黄和田畑~天津)の道筋である
・小櫃川に沿って源流の清澄山へ、そして外房の磯(天津)をめざした道。
・亀山は、古くから山間の物資の集散地で、木材、炭、シキビなどが集まった。物資は小櫃川の流れを利用して江戸へ送られた。この水運は明治時代まで盛んであったが、大正元年、木更津~久留里間に県営の軽便鉄道(今の久留里線)が開通し、しだいに衰えていった。

⑪御成街道(鷹狩の道)
・船橋東照宮~船橋大神宮~津田沼~長作~千城台~八街~滝台~東金~蓮沼
・37kmの直線道路。家康が鷹狩りを名目にこの地方の百姓を総動員し約1ケ月足らずの突貫工事で造らせた道である。軍事目的が狙いであったようだが、九十九里地方の海産物や下総台地の物資を運ぶ輸送路としても使われた。鷹狩りによる通行は計11回が記録されている。蓮沼において九十九里道とつながっており、鷹狩は九十九里道にも及んだようである。
・現在は、四街道付近で自衛隊基地に、八街付近では耕地整理などにより分断されており、直線ではなくなっている。

⑫成田街道(お参りの道)
・行徳河岸~原木~海神~船橋大神宮~前原~大和田~臼井~佐倉~酒々井~伊篠~成田
・成田山新勝寺は江戸時代から庶民の信仰が厚かった。そのため成田に向かって幾つかの道が開けたが、最も賑わったのが行徳から船橋、佐倉を経て成田に至る成田街道であった。江戸の小網町から行徳河岸を経て成田まで約64kmである。
・成田へは、江戸川を遡り関宿で利根川に入り、下って滑川観音の少し手前の新川から成田への行く、船による参拝の道もあったようである。

⑬木下街道
・行徳河岸~市川八幡~中山~船橋法典~馬込沢~鎌ヶ谷~白井~十余一~鹿黒~大森~木下河岸
・古くは木下道、鹿島道、銚子街道といわれ、約36kmである。途中の十余一において千葉ニュータウンにより分断されている。
・銚子からの物資輸送や、香取・鹿島・息栖詣の参拝客、銚子遊びをする旅人に大いに利用され、俳人松尾芭蕉も歩いて「鹿島詣」を著している。
・中山には、日蓮宗五大山の一つである中山法華経寺がある。日蓮直筆の「立正安国論」が保存されている。

⑭鮮魚街道
・布佐~発作~浦部~白井~藤ケ谷~六実~五香~八柱~松戸
・生ものや塩干物を多く運んだことから鮮魚街道といわれた。利根川の布佐河岸と江戸川沿いの松戸の納屋河岸を結ぶ街道で、距離は約30kmである。納屋河岸からは船に積んで江戸日本橋の魚市場へ運ばれた。
・藤ケ谷の陸上自衛隊下総航空基地により分断されている。
・銚子を夕方に出た鮮舟(船子3人)は、夜間に二十里余りの利根川を溯り未明に布佐に着いた。ここで荷を駄馬に積み替え陸路を松戸の納屋河岸へ。夕方には再び船に積み替え、翌朝、江戸日本橋の魚市に間に合った。計35時間程であった。
  こうした輸送は秋から翌春にかけてのもので、夏場の渇水期には生簀仕立ての活舟で銚子から関宿を経て日本橋に魚を運んだこともあった。活船には猪牙船が使われた。この船は舳先が尖った小型の船でなかなか早かったようで、江戸の深川ではよく吉原通いに使われたようである。

注、各街道を現在の国道や県道の番号などで説明していますが、街道(旧道)は現道を出入りしていることが多いことから、実ルートの決定にあたっては前述の参考文献などを参考にされたい。

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第1図 房総の街道と独案内のルート
                   

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