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坂東巡礼の感想文 (2/2)

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 坂東巡礼の感想文(2/2


(8)ヤクザ

sasagawa.jpg 坂東の巡礼道には、昔のヤクザ(任侠)の世界で有名な土地があります。
 一つ目は「・・赤城の山も今宵限り・・」の舞台となった群馬県の国定。
 二つ目は「・・止めて下さる、妙信殿・・」の舞台となった千葉県の笹川と飯岡である。
 一つ目の国定は、悪代官を懲らしめた国定忠治さんの「国定」である。江戸時代には、百姓やこの世界の人間は姓を名乗れなかったことから、地方、村の名前を頭に付け「国定村の忠治さんを国定忠治」としていた。ということは、昔かしの社会科の授業で得た知識だが、国定の地名が残っていることに感激した。(笹川と飯岡についても同じ)
 そんなことで、忠治親分さんのお墓があればお参りをしていこうと思っていて、注意して歩いていたら案内看板がありました。「少し先に行った所だ」と確認して歩いていたはずだったのですが、他事を考えていたのか通り過ぎてしまいました。戻るのはおっくうなことから、結果としてお参りはしませんでした。
 これは今でもとても残念なことをしたと思っています。それは「任侠の世界の人のお墓にお参りすると勝負事で勝ち運が得られる」というジンクスがあるからです。
 このジンクスは「森の石松さんの墓石が削り取られて小さくなってしまったため、建て直した」という新聞記事から得た古い知識ではありますが。
 私は勝負事(競馬、パチンコなど)をしませんが、宝くじは時々買うことがあります。観音様の現世利益とこのジンクスが重なれば、勝運は完璧であると思われますが、いかがなものでしようか? 乞うご期待をといったところです。
 二つ目の笹川と飯岡は、「天保水滸伝」の主役と言える笹川繁蔵さんと飯岡助五郎さんの「笹川」と「飯岡」です。「天保水滸伝」の中では笹川繁蔵さんは良い親分、飯岡助五郎さんは悪親分ですが、飯岡助五郎さんのお墓のある光台寺に置いてあった印刷物「遊侠、飯岡助五郎と現国山光台寺縁起」によれば、これが全くの逆でありました。 その内容を印刷物から紹介しますと、
iioka.jpg 助五郎さんは飯岡浜一帯を縄張りとする親分であり網元で、又銚子御陣屋より十手、補縄を預かり関東取締役御出役の際には道先案内を努める程の身分でありました。
 この頃、利根沿岸の香取郡須賀山村笹川に、笹川繁蔵という博徒が現れ、先輩の大親分である助五郎を蹴落とすために、若さに委せて縄張りを荒したり本宅を襲撃するようなこともありました。そのため助五郎は関東取締役より召捕状を受け、天保15年8月6日夜半、利根川を川船に乗り総勢百数十名にて笹川へ向い、笹川岸にて笹川方百余名と大乱闘になったものです。
 その後の弘化4年7月4日夜、助五郎の子分堺屋与助などが繁蔵を闇討ちにして、助五郎のところに首を持ってきたので、助五郎はこれを丁重に葬りました。
これを「天保水滸伝」と称したものですが、作者の曲筆によって、助五郎は悪親分に仕立てられてしまった。・・・・・・。という内容であります。
私には本当のところはよく分からないが、きっと「天保水滸伝」の作者は、体制側と反体制側という両者の立場の違いと、最後に闇討ちがあったという事実から、助五郎を悪親分にした方がヤクザ世界のドラマに仕立て易かった、読者受けし易く書くことが出来たということではなかったかと。
 「武士道というは死ぬことと見つけたり。(葉隠)」ではないが、日本人は「死」の瞬間を特に重要視することから、子分がやったとはいえども「闇討」という言葉が付きまとう助五郎さんを、一般的には受入れ難いのではなかろうか。
 さて、事実はよく分からないが、私が両者のお墓にお参りした感想として、繁蔵さん(平手造酒もおなじ場所にある)のは、本当に立派な石碑であったのに対して、助五郎さんは一般的なこじんまりした大きさでした。ところが、繁蔵さんには正月元旦であったにも係わらず花の一輪も無かったのに対して、助五郎さんにはお花と名誉挽回の立て看板、印刷物が置いてありました。
 この事実は非常に印象に残りました。石碑の大きさ立派さが逆に虚しさを感じました。人間の評価は時代と共にいろいろ変わるものだと。
 繁蔵さん(平手造酒)のお墓は、「天保水滸伝」が浪曲、講談、映画などで盛んに取上げていた時代に建てられたような気もします。商業主義的な動機のもとに。
 いずれにしても、時代を駆け抜けた両者の冥福を祈り、手を合わせてきました。勝負事のジンクスを期待するのではなく純粋に。

(9)ルート取り

gumyoji.jpg まえがきに書いたとおり ルート取りは右まわりとし、地図と何回もにらめっこしながら、マクロ的に全体の歩行距離が最も少なくなくなるであろうと考えられた、14番弘明寺をスタート点すなわち発願寺としました
ルートの選定は、若い頃に山歩きをしていたこともあり登山道を含め地図上での道という道を選び抜いて、距離の短くなりそうなルートにしました。
 そのルートは、出発前に地図に朱入れをしておき、それにもとづき現地を歩きました。なお、現地で近道が出来そうな場合は、その場その場で判断して行動しましたが、近道のつもりが行き止まりでかえって遠回りになったケースも多かったような気がします。
 今回歩き終えたところで、このルート取りを振り返ると、間違っていたとは言わないまでも、それ以外のルートの方が良かったのでは、と思われるものもあります。それをピックアップしてみると、
水沢寺~満願寺~中禅寺~大谷寺間
asegata.jpg 満願寺~中禅寺間で峠を2回越えることと、足尾~中禅寺間の山道(登山道)が急坂で荒れていた
 ことから、水沢寺~満願寺~(国121号)~中禅寺~大谷寺。又は水沢寺~(国122号)~中禅寺~(国121号)~満願寺~大谷寺のルートが考えられる。
清瀧寺~龍正院~円福寺~千葉寺
 円福寺~千葉寺間の東金から千葉寺間において房総半島の丘陵地山越えがあることから、番号通りの、清瀧寺~円福寺~龍正院~千葉寺、のルートが考えられます。
c.千葉寺~笠森寺~清水寺~高蔵寺~那古寺
 千葉寺~笠森寺~清水寺及び清水寺~高蔵寺に房総半島の丘陵地山越えが2回あり、番号通りの千葉寺~高蔵寺~笠森寺~清水寺~(国128号) ~那古寺のルートが考えられます。
  なお、以上の代替えルートについては、自分で歩いていないことから「ハッキリしたことは不明である」ということを補足しておきます。
ところで、これらの代替が考えられるルートについては、苦労はあったものの反面印象に残ることが多くありました。
kuma.jpg 足尾~中禅寺間の山道(登山道を含む)では、ゴーストタウンのような足尾銅山跡と鉱害で禿山になり崩れ落ちる山肌が見られ、自然は一度破壊されるとその修復には時間が必要であることを痛感しました。聞くと見るのでは大きな違いで「百聞は一見にしかず」といったところでした。又この道では「熊出没注意」の立て札があったり、野猿があちこちに見られたりで、それなりの面白さがありました。
 房総半島の丘陵地山越えでは、前夜に強風が吹いたこともあり、山栗が沢山舗装道路に落ちていました。これは観音様からのご利益であるしてありがたく頂くこととし、リックが重くなる程持ち帰り茹でて食べました。実が小さいため割って中身をスプーンでほじくり出しながらでしたが、美味しかったです。

(10)日本水準原点

suijun.jpg 坂東をはじめお寺を歩くにあたっては、国土地理院の5万分の1の地図を何時も使っています。これは若い時の山歩きで使っていて使い慣れているからです。
 この地図には標高が記載されていますが、この標高の「原点」があることを地図で見つけました。ルートからは少し離れていましたが記念に見ていくことにしました。
 場所は千代田区霞ケ関で国会議事堂の近くです。公園の中に3m角程の石造りの建物があり、正面に古い書体で「水準原点」と書かれた表札がはめ込んでありました。貫祿のある造りでした。
 近くには御影石の説明板が置いてありましたので、その内容を紹介します。

 日本水準原点について ――― 日本水準原点は、全国の土地の標高をきめる基になるもので、明治24年5月国がここに設けたものです。水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心で、その標高は24.4140メートルと定められています。この値は明治6年から長期にわたる東京湾の潮位観測による平均海面から求めたものです。建設省国土地理院
 ところで、道路を歩いていると道路脇に1等水準点とか2等水準点の標石が時々見られますが、これらはこの水準原点を原点にしているわけです。
 この原点を見てからは、歩いていて地図に水準点表示があると、標石探しをしたりしましたが、心ない人のせいかそれとも自然災害によるものかよく分かりませんが、斜めになったり、ひっくり返ったものがあって心が痛みました。あたかもお地蔵さんがそのようになっているようで。

(11)ガマの油
 「・・・・・サァーテお立会い、このガマ、どこに住むかというと、ご当地よりはるか北、北は常陸の国に筑波の郡、古事記、万葉の古より関東の名山としてうたわれておりまする筑波山のふもと。おんばこという露草薬草を食らって育ちます。サァーテお立会い、このガマからこの油を取るには山中深く分け入って捕らえきましたるこのガマをば、四面鏡張りの箱の中にガマをほうり込む。サァー、ガンマ先生、己のみにくい姿が四方の鏡にうつるからたまらない。・・・・・・(お土産に買ったガマ油の袋に入っていた印刷物より)」 の口上で有名なガマの油は、25番大御堂の直ぐ近くの筑波神社前のおみやげ屋さんで買うことが出来ます。 この薬の薬効は切り傷、虫刺されなどであったような気がします。
 ところで25番大御堂の境内に、ガマに関する句碑が在りました。「一陣の 筑波の風や 四六ガマ  木下貴意」 この句碑の横には御影石の説明板が建っていました。内容を紹介します。

gama2.jpg「貴意は、水戸に来て四ケ年の勉学であったが、俳句を良くし、書道も優秀、殊にガマの油の販売に努力し、今日の成果を挙げたが、ガンを病み、一年有余の闘病も空しく、六十二年七月八日没した。六十五才、洵に惜しまれる女性であった。ご冥福を祈る。 昭和六十二年十一月吉日 元祖ガマの製造本舗貴学園 社長 種村玄碩」 木下貴意さんは、ガマの油売りに貢献した人のようである。
 どのようなことをされたのかを知りたくて貴学園へ電話を入れてみたが、電話に出た方の返事は「良く分からない」ということであった。
私の育った田舎でも大きなガマを時々見かけたが、四六ガマとは特別の呼び名である。ガマ油の袋に入っていた印刷物によれば、「・・・四六五六はどこで見分ける、前足の指が4本で、後足の指が6本、これを合わせて引き面相は四六のガマだ・・・」という説明である。
 25番大御堂への登りの山道には、この四六ガマが出て来そうなムードの草むらもあったことから、その顔を拝顔することを期待したが、雨蛙の一匹にも会えなかった。

(12)気になったこと

yonaki.jpg 三十三ケ所のお寺を巡ってお寺に関して感じたことを2~3点。
 第1に、お寺(建物)を維持していくには大変だなー、と思った。ガイドブックなどによれば寺が栄えた(建物が沢山建っていた)のは、ほとんどが時の権力者の保護を受けていた時代だったようだから。
 これを逆に見れば、現代はこれを望むべく状況でなく、広く一般から浄財を求めなくてはならないからである。本堂再建などの寄付を求めるお寺もあったが、本当に大変な感じがした。
 26番清滝寺は檀家寺でなく、老人会有志のボランティアにより納経の受付がなされているようだが、受付のおじいさんの笑顔が印象に残った。おじいさんに観音様のお慈悲がありますように願ってやまない。
第2に、お寺の境内に犬が5~6匹いて、参拝の人にワンワン、ギャンギャンと吠え狂っていた寺があったのには参った。住職のどのような考えなのか判らないが、少しは常識をと言いたい。
 第3に、お寺の直ぐ側の洞穴で発掘された出土人骨を、宝物館に展示している寺があったのには驚いた。この出土人骨には横臥屈葬の姿が見られるとのことで、これから考えると発掘はお墓を掘ったことになる。学術的なことはよく分からないが、古墳などを発掘し骨が出土した場合、どこまでが遺体でどこからが出土品(品物)なのだろうか。
 私しは遺体として手を合わせてきたが、お寺が見せ物にするのはいかがなものだろうか。お寺なのだから、御本尊以上にしかるべく扱いをすべきで、展示するなら写真か複製で十分ではなかろうか。

(13)野宿

dokan.jpg足利~17番満願寺~足尾間は、交通の便の関係から2日工程とし満願寺付近で宿泊する予定であったが、お寺も、付近の旅館も泊めてもらえなかった。食事なしの宿泊だけでよいから、と粘ったがいずれもだめだった。よくあることだか一人での宿泊にはついてまわる話しである。
 「30分も行けば泊まるところがあるよ」と紹介されたが、それは車でのことで、1日歩いてきた人間にとっては天文学的な数字の距離である。
 そんな経験を西国廻りなどで数多くしてきたこともあり、軒下を借りれば何とか宿泊が可能な、寝袋と小型テント(雨具兼用、自分で作った)をリックの底に入れてある。ここ満願寺の近くでは、この寝袋と小型テントにお世話になることになった。土捨て場にあった直径1m程のコンクリート製の土管の中で、これを使って寝た。途中にあった雑貨店で貰ったダンボールを敷いたが、背中が痛かった。
 当初は公民館か学校などの軒下でこっそり寝ることで考えていたが、地元の人からの「近くにキャンプ地があるからそこでこっそり寝ては」のアドバイスがあり、そこを見に行く途中にこの土管を発見し、この中で寝ることにした。
 軒下とか土管を選ぶのは、突然の夕立でズブ濡れになるのを避けるためである。
 背中の痛さと少し寒かったこともあり夜中に何回も起きたが、寝始めの頃には鳴いていた虫の音もその頃にはなく、本当に静かで真っ暗闇であった。
 肉体的には少ししんどい環境であったが、精神的には満ち溢れた経験が出来た。
 宿を断られたイライラは、「かえって良い思いをした」と解釈し流してしまうことにしている。

kasamori.jpg

<あとがき>
  巡礼記録のまとめも、この「あとがき」で終りです。
 7年間も費やしましたが「健康維持目的のウォーキング的な坂東観音霊場巡り」を無事終え、巡礼記もまとめることも出来ました。満足感と共に率直に喜びたいと思います。
 「観音様のおかげ」と思っています。
 日帰りが基本であったせいかとも思いますが、坂東巡りは四国遍路の時のような味わい、暖かさが今一つといった感じもします。学校の帰りの小学生が「今日は」と挨拶してくれたことが一度ありましたが、人との接触が少なかったからかもしれません。
 「巡礼の会」の彼女の話しではないが、「観音霊場巡りは点が基本」であって、道すがらに何かを求めるのは欲張りだったのかもしれません。
 ところで、歩いた1,108.4km にこだわるわけではないですが、「巡礼路」とは一体何なのでしょうか。

 「道(路)」について国語辞典で調べると、
 ・人、馬、車などが行き来する道。
 ・人間がそれに従がって行なわなければならない事柄。
 ・途中(学校へ行く道で )
 ・方法(生活の道)
 ・教え、道理
 ・みちのり(千里の道;;; )
 ・専門、方面(その道の大家)
 とありますが、巡礼(路)道は、これらのどれに当てはまるのでしょうか。
 「人、馬、車などが行き来する」という物理的な道でなく、柔道、剣道、華道、茶道と同じように「教え、道理」を求めるべく、すなわち自己の内部を高めるべく道(歩行、歩くぎょう)であったような気もしますが、今回の「てくてく歩き」によって私のハート、脳細胞には、何の変化があったのでしょうか?

 最後に、この巡礼の期間中に故郷の友が亡くなりましたが、今回の巡礼行でお会いした観音様達のもとで、あの世で安らかであることをお祈りしたいと思います。
 「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸いあれ。 「 般若心経・現代語訳」
 合掌

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<坂東札所霊場会の会報に紹介>
*巡礼記制作後に13番浅草寺(坂東札所霊場会)に納めさせていただきました。
 平成11年1月1日発行の「坂東」第6号に紹介されました。

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