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四国八十八ケ寺歩き遍路記 (2/2)

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< 四国八十八ケ寺歩き遍路記 (2/2)>


(15)三坂峠

yondaihoji.jpg 「三坂越えれば吹雪がかかり、戻りゃつま子が泣きかかる・・・」の馬子唄のとおり、 土佐街道の難所と言われてきた三坂峠の道は、前日に降った雪がまだ残っていた。
 峠からの松山側の眺めが良いとのことであったが、黒い雲が低くたれこめており、残念ながら良く見えなかった。
 峠には立派な売店が有り、ここで休んだ後、標高差約700メートルの急な山道を一気に下りたが、雪が凍っていてよく滑った。
 雪の上には、誰か一人だけ通り過ぎた足跡が残されており、我々と同じく山道を下っていたが、前日のもののようであった。途中からオートバイのタイヤ跡もあり、タイヤの溝の深さからみてマウンティングバイクのようで、下から上ってきたが上りきれず諦めて戻ったようである。歩くのでさえ大変な山道を、よく上ってきたものだと感心したが、こんな山道をバイクで上り下りすれば、道が崩れてしまうのにと気になった。
 坂の途中に雪の上に頭を出した小さな石碑があった。この場所で事故にでも遇って亡くなられた人を供養した江戸時代のもので、手を合わせて通りすぎることにした。
 急坂を終わり車が通れる程の道幅になるあたりから、雪が無くなり空も晴れて温かくなってきた。オーバーズボンとヤッケを脱ぎながら、瀬戸内の暖かさと、馬子唄の「三坂越えれば吹雪がかかり・・・」の歌詞どおり、峠の厳しさを実感した。

(16)行き倒れ

yondohyomaru.jpg 本山寺から弥谷寺への道で、夏の暑さを避けて休みながら昼寝をしょうとしたが、適当な場所がなかなか見つからない。見つからない、見つからないと言いながら歩いているうちに2時を過ぎてしまったので、よい場所ではないが道脇の農家の小屋の日陰で休むことにした。
 シートを敷いてリックを枕にして昼寝をし始めたが、少したったところで誰かに起こされた。
 目を開けたら、おじいさんが立っておられ「お遍路さんどこか具合が悪いのかい」とおっしゃている。
 「いいえ、一寸暑いもので涼しくなるまで休んでいるのです」と返事をしたら、「そうか」と言って「ここは風が通らなくて暑いから、こちらへ来て休みなよ」と言いながらすぐ傍の自宅へ誘って下さった。
 「ありがとうございます、少し休んだら出発しますので」とお断りしたが、さかんにおっしゃるので、のろのろと後ろを付いていくこととした。
 お家は農家で、庭先の日陰に物置台を運んでこられ、「ここに座れよ」「麦茶を飲むか」など大変なお接待である。
 「どこから来たの」「親子なの」「歩いているの」などなど、矢継ぎ早の質問に答ええて一段落してからも、麦茶とお菓子を運んでこられた奥さんと、氷水を持ってこられた隣りの奥さんも加わって、あれこれと話しをした。
 おじいさんは、農協に勤めていたが卒業されたとのことで、この地方での作物とか、溜池と香川用水とか、現在の農業問題など、いろいろ話して下さった。
 印象に残ったのは農業用水の話しで、香川用水が出来て水の確保が楽になったとのこと。また、この水は最初は高台の溜池に貯えられ、その後途中の溜池を経由しながら田畑を潤し、一番低い溜池に流れこんだらこれをポンプアップして、高台の溜池に戻し再使用するとのことで、降雨の少ない瀬戸内地方では水を大切にしていることが良く分かった。
 私が岐阜県美濃地方の農家の生まれであることもあり話しが弾んだが、この間、子供は目を半分閉じていた。
 3時までの休憩予定が20分も超過してしまったので、お礼をいって出発したが、まずいことをしてしまったと反省しながら歩いた。いいかげんな所で昼寝などしたものだから、どうも皆さんに「行き倒れ」ではないかと心配をかけてしまったようである。
 ところで、この皆さんに心配をおかけしたことは、すぐに仏罰として戻ってきたのである。
 ここでの20分間の長居によって、弥谷寺の納経の時刻に間に合うか間に合わないかの状況になってしまい、お寺への登り道と262段の階段を駆け足をしたのである。
 ガイドブックに書いてあった遍路の心得に「いやなこと、苦しいこと、くやしいこと 、悲しいことなどいろいろあるが、これは全て大師のはからいと感じ、ひたすらに合掌の気持ちであり難く受けること」とあったが、「修行がたらない」との大師の「はからい」で、あったのか、なかったのか、階段の上りはしっかりと苦しかった。

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(17)宿で聞いた話し
 民宿の主人に聞いた話しの内、印象に残った遍路の話しを一つ。
 九州の人で奥さんと子供が二人あったが、その人が出稼ぎに出ている間に家が火事になり、家と家族の全てを失なってしまったとのこと。
 悲しみを振り切って生きていかなければ」と思われたそうだが、どうしても心の整理がつかず、あれこれ悩んでいたところ、その時に遍路を紹介する人があって、亡くなった家族の供養にと遍路に出られたとのこと 。
 働きながら、気にいったところでは1~2ケ月の長期滞在をしての遍路で、その宿では1ケ月程滞在されたとのこと。
 2回打ったところで、なんとか心の整理がつき、九州に戻られたとのことで、元気に過ごしているとのお礼の便りがあったとのこと。
 この話しを聞いて、遍路は素晴らしいリハビリシステムであると思った。
 遍路は、確かに宗教とか信仰をベースに成り立っているものであるが、八十八ケ所のお寺だけで成り立っているものでなく、四国の人、風土、歴史そして八十八ケ寺を巡る間の時間・空間などによって、成り立っているように思われた。
 家族を亡くしたこの人は、遍路によってメンタルリハビリを受け、過去に囚われることから解き放たれて、残された人生を前に向かって歩きだされたのである。
 これこそ本当の「弘法大師のおかげ」と言って良いのではなかろうか。

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(18)宿捜し

 遍路中において一番苦労したのは宿捜しである。
 少しでも先へ進みたいことから、宿捜しはいつも行き当たりばったりで、夕方になっても宿が見つからなくて、あせったことも何回かあった。
 万一のことも考えて、野宿出来るように寝袋やテントを持ったこともあったが、使ったのは2回だけであった。
 夏ならいくらでも野宿は可能であるが、風呂に入って汗を流して疲れを取らないと翌日が大変だし、洗濯をする必要があり、宿に泊まることを最優先とした。
 ところで、苦労した宿捜しにおいて、生活の知恵と言うべきか、苦労の結果と言うべきか、経験を積む中で良い方法を考えだした。特別どういうことでないが、昼頃になったら電話ボックスに入り電話帳と持っている地図をもとに、夕方までに着けそうな町や村に宿がないかを捜し、あれば順番に電話をして予約するのである。
 そうしても見つからない時は、何らかの交通手段があるかを地図と地元の人に聞いて調べ、あとは「電話帳に載ってない宿もあるわいな」と先に進むのである。
 そうして、夕方になってもどうしても宿が見つからなければ、当日の遍路はそこで中断し、あとは文明の利器の交通手段を利用して、宿がありそうな町へ行き泊まるのである。翌朝は、交通手段を利用し前日の場所に戻り、そこから前日からの遍路を続けるのである。交通手段を利用したこの方法を使ったのは3回あった。
 ところで、電話ボックスの電話帳を利用した宿捜しにおいて困ったことがあった。それは峠を越えるような場合で、峠の先の宿捜しの場所とこちら側の電話帳が異なり、こちら側に先の電話帳が置いてない場合である。また、いたずらで電話帳が無くなってるときにも。

(19)蝮(まむし)

yonmichishirube.jpg 夏の山道での「まむし注意」の表示札には、ドキッとさせられるしマイッタナと思わされる。
 遍路中、確か3~4回蛇さんに出くわした。雲辺寺の上りでは、マムシらしき色の小さな蛇さんを踏みかけて、反射的に足を止めたこともあった。
 私は、田舎育ちだから蛇さんは見慣れているが、それでも一瞬ドキリとさせられる。 「蛇さん」と「さんづけ」にして親しみをもつようにしているが、トカゲも同じで、どうしても爬虫類は好きになれない。東京育ちの子供は逃げ廻っていた。
 ところで、「まむし注意」の表示札のことであるが、表示札があれば注意はするものの、具体的な注意手段としてはこころもとない。
 蛇さんを見慣れている私が先頭に立つことと、杖を持った手をいっぱい延ばして、なるべく先の方を叩きながら「蛇さん蛇さん道をあけて下さい」と念じながら歩く以外、方法が無いのである。
 草むらの多かった白峰寺付近では、金剛杖のご威光に全てをお任せして歩いた。

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(20)やさしい奥さん
 大宝寺へ向かう道において、宿が見つからずお寺に泊めていだだくことにした。
 寝袋を持っていたものの雪が降っているし、寒さが厳しいこともありそうすることにした。
 (このお寺に泊まれることは、松山市の宮崎さんが「突合の分岐」に掲示された案内地図に書かれていた。)
 「ごめんください、歩き遍路ですけど宿がみつかりませんので、軒下でけっこうですから貸していただけないでしょうか」
 「お遍路さん、この寒いのにご苦労様、おあがりなさい」と奥さんのやさしい声。
 遠慮なく上がらせていただき、本堂の続きの間に案内していただいた。
 「お正月で子供達が戻ってきていたんですけど、今日帰りました。小さな山寺ですけど、どうぞゆっくりしていって下さい」 (当日は正月三日であった)
 「御飯は!」
 「いえけっこうです。食べ物を持っていますので」と答えたものの、持っているのはビスケットだけであった。
 夕食にはみすぼらしい内容と量であったが、「軒下だけを」と言った手前、食事までお願いするわけにはいかなかった。
 しかし、ほどなくして、「お正月の残り物ですが」と言われて、奥さんがお正月料理を大きなお皿いっぱいに運んでこられた。
 里芋、蓮根、人参、蒲鉾、こんにゃく、・・・。数の子まである立派な正月料理である。おなかが空いていたこともあり、いい匂いがする。
 「遠慮なくいただきます」と言っていただくことにした。
 子供達には「少しだけ食べさせていただこう」と言ったものの、空腹には美味しいの一言である。朝からパン類しか食べてなかったからよけいである。
 三分の一程食べてしまったところで、眼の前に置いておけば食べつくしてしまうので「ごちそうさまでした」と言って隣の部屋にお返しした。
 少したって、新調の布団を運んでこられた。
 「これは松山市の宮崎さんからお預かりしているものです」との説明があったが、掛布団の表地には般若心経が書いて(染めて)あり、この布団を掛けるにはまだ若いのではと、何か変な感じをいだかせる布団であった。
 寝るにあたっては、布団を汚さないように寝袋で寝ることとし、敷布団だけ使わしていただいたが、夜中に寒くて、結果として寝袋の上に掛けて使わせていただいた。
 布団が布団だから、きっと病気をしないで長生きするかもしれない!。
 朝は寒かった。雪はコンコンと降っているし、素足で歩く板の間は氷のように冷たかった。yonhiwada.jpg
 朝は凍って水道が使えないからと、奥さんが洗面器に水を汲んでおかれたが、カチンカチンに凍っていて使えなかった。
 出発しょうと準備していたら「御飯ですよ」と言って、奥さんが朝食を運んでこられた。昨晩、食事をしないで出かけますとお話ししておいたのに。
 遠慮するような状況でなかったことから食べさせていただいた。
 湯気の上がる御飯と味噌汁は大変美味しかった。
 出発にあたりお礼をとお話ししたが断られた。しかたがなくて、それでは仏様にということで仏様にお預けすることにした。
 寺をでるとき、奥さんがお餅を一袋「荷物になりますが」といって下さった。
 住職さんは「歩いている人には荷物になるのに」と奥さんに言われたが、奥さんがどうぞどうぞ言われたのでいただくこととした。
 30cmほど雪の積もった峠道を歩くには、荷物は少なければ少ない程良いことは、骨身にしみるほど分かっていたが「遍路はお接待を素直に受けなければならない」と本を読んで知っていたので、素直にいただいた。
 (なお、このお餅は、途中一個として減ることなく東京までリックで運ばれた。)
 住職さんが、「この雪での峠越えは大変だから町まで車で送っていく」と、さかんにおっしゃったが、歩き遍路のワンパターン「歩いていますので」といって断わった。
 雪道を歩きながら、「どうして奥さんは朝食を準備してくださったのか!」と子供と 話しあったが、きっと、「夜に出されたお正月料理を沢山食べてしまったから、おなかが空いていることが分かってしまったのでは」ということになった。
 奥さんの母親のような温かいお接待を思い出すと、今でも胸が熱くなってくる

(21)お軸

yonusironatu.jpg ウトウトとした眠りの中で、背中の冷たさで目がさめた。
 テントのシートは水浸しである。
 夜半から降り出した雷を伴った雨は、相変わらずの土砂降りの横なぐりで、息をつきながらテントをバタバタとあおっている。
 橋の下にテントを張ったのだが、横なぐりの雨は遠慮なくテントを襲ってくる。
 うるさい程だが子供達は丸くなってグーグーと寝ている。
 目覚めのボーとした意識の中で、頭のそばへ置いておいた懐中電灯を引き寄せ、入口を少し開け外を見た。
 電灯の丸い輪が浮かび、水の流れているのが見える。昨夜のゴロゴロした石のあった川原は、一面水が流れている。
 更に光の輪を手前へ引き寄せると、これはびっくり、テントのそばまで水が流れているではないか。
 「これはあぶない!」逃げなくては。
 「オイ、起きろ、水が出た逃げるぞ」と、大きな声で叫びながら素足で飛び出した。 そして、外に囲ってあったリックをテントに投げ込む。
 「荷物を入れて逃げろ」と言いながら、自分も荷物を押し込む。
 子供達が靴を履こうとしている。
 「靴なんかよい、リックにほり込んで早く逃げろ。なんでもいいから早く逃げろ」と 叫ぶ。
 リックを抱かえて、暗闇の中を高台に向かって素足で走る。斜面は水が滝のように流れ、ゴツゴツした石で足の裏が痛い。
 少し登って「おい大丈夫か」と叫ぶと、「ここだ」と二人の返事が帰ってくる。
 その方向に歩き懐中電灯を向けると、ビショビショに濡れた二人の顔が浮かんだ。
 ヤレヤレと思うと共にテントをどうするかを思う。恐る恐るとりにいくことにした。懐中電灯で水の流れを確認しながら、テントの片端を思いっきり引っ張り引きずり倒す。
 こういう時は思わぬ力が出るものだ、無我夢中である。そのままテントを引きずって 子供達の所へ行く。
 三人そろったところで、街灯のある斜面の上の道路に向かう。
 街灯の下でテントを丸め近くの農家の小屋の軒下にもぐりこんだ。
 雨は相変わらず土砂降りで、下着まで濡れており背中がゾクゾクと寒い。リックからポリ袋にいれてあった衣類を取り出し全部着替えた。
 そして、ラジオを聞きながら朝をむかえることにした。
 時計を見たら4時であった。
 明るくなり雨が小降りになったところで、傘をさして逃げ出した所を見にいくことにした。
 夢中で逃げた斜面を降りて川原を見ると、茶色の濁流がごうごうと音をたてて流れている。
 昨夜テントを張っていたと思われる所を見れば、なんと、背の高さ以上の深さで濁流が流れているではないか。
 とても泳げるような並大抵の水の勢いではない。
 「ほんの少し目が醒めるのが遅かったら」と考えたら、その瞬間、背筋がゾクゾクとした。
 そして、「よかったなあー、流されなくて」とこみ上げてくるものがあった。
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nakagawa.jpg 以上が雨中の脱出ドラマである。
 場所は鶴林寺と大竜寺の中間点の那賀川に架かる橋の下で、時は昭和62年8月13日の未明、お盆のことである。
 この雨は、地元の人が「何年ぶりかの豪雨で、水の出るのが早く川舟もたくさん流されてしまった」と言っておられた程の記録的な豪雨であったようである。
 この脱出ドラマを考えると、濁流に流されないですんだのは、
 第一は、テントを張る場所を万一のことを考え、水辺の近くでなく少し高台を選んで いたこと。
 第二は、遠くまで照らせる懐中電灯を持っていたこと。などによるが、
 反対に、このようなドラマを演じてしまった原因としては、
 お願いすれば公民館に寝られたものを、テントを張るときは青空一杯の天気で、せっかく重いテントを持ってきたのだからと、テントを張ってしまったことによる。
 また、土砂降りの雨の中で、高台だから大丈夫と油断していたことなどにもよる。
 ところで、このドラマにおいて忘れてはならない事がある。
 それは、お遍路さんには大事・大事の「お軸」を流されてしまったことである。
 農家の小屋の軒下に逃げ込んで荷物を調べたら、お軸だけ無くなっていたのである。
 この事をどう理解すればよいのだろうか!
 「お軸が私達の身代わりになられた」とは考えられないだろうか!
 四国には数え切れないほどの、弘法大師をはじめとした仏様の「功徳・おかげ」の話しが言い伝えられているが、私達の経験したドラマは、この「おかげ」ではなかっただろうか!
 「結果からの解釈」と言ってしまえばそれまでだが、理屈ではない何かを感ぜざるを得ない。
 こう感じたのは、私だけでなく子供も同じだったようである。
 なお、流されたお軸の仏様には、徒歩順拝が終わったあとに、感謝のお礼参りを車でさせていただいた。
 「ありがとうございました」の気持ちをいっぱい込めて。

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<あとがき>
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとする。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、・・・・」 (「おくのほそ道」松尾芭蕉)
  芭蕉の「漂泊の思ひ」とまではいかなくとも、いづれの年よりか、チリンチリンの音にさそはれて、一杖一笠を友に「通しの歩き遍路」をしてみたい。
  遍路の旅に死せる古人と、ガードレールに縛りつけられた花瓶の主に、手を合わせながら。
  合掌

*ブログ制作時点での補足
  年末年始の休暇を利用しての遍路行もありました。宿の確保に苦労をしましたが、無理をいって泊めていただいた面もあり、宿の方に大変ご迷惑をお掛けしたのではと反省をしております。


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