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 西国観音霊場てくてく巡礼記
  *この巡礼記は、平成17年3月に制作した巡礼記を、ブログ用に構成変更したものです。

<まえがき>
この巡礼記は、西国三十三ケ所観音霊場の歩行記録です。
  巡礼中に用いた地図(国土地理院の5万分の1)に記載していた歩行時間と、印象に残った事のメモを整理したものです。
  歩行記としては、平成5年5月の「四国八十八ケ寺歩き遍路記」、平成10年6月の「坂東三十三ケ所てくてく巡礼記」に続く三冊目で、私しの思い出として、足跡を整理してみました。
  歩行は、東京(江東区)と舞浜(千葉県浦安市、途中で転居)から、サラリーマンでの休暇取得可否、体調、それからお金とも相談しながら、1週間程度の宿泊巡礼を基本に、その回毎に前回の歩行終点から歩き続けることにしました。(当然ながらそこまでは交通機関を利用します)
  発願は、1番の青岸渡寺とし、順番どおり巡ることを基本としましたが、京都市内の18番と19番は近道を選んだことから逆になってしまいました。

 歩行記録の概略をまとめると、
(1)歩いた人は、私しと下の子供。
ただし、同行は2回、延べ16日間)
 (2)巡拝に要した年数は15年間(平成2年~16年)。出かけた回数は6回。
    *最終回の前6年間は、都合により中断。
 (3)延べ日数は、車・船中泊を含め33泊-39日(史跡などの見学を含む)
    宿泊内訳  旅館・民宿25泊、船・車中4泊、善根宿1泊、親戚3泊。
 (4)歩行距離 936Km
    *国土地理院の5万分の1地図での地図上の距離。
    *回毎の起終点が駅・バス停等になるため、若干の廻り道をした日もある。
 (5)平均歩行距離 29.2 km/日、(最大 41 km/日)
 (6)費 用    約 61万円
 (7)使用した地図  国土地理院の5万分の1地図  43枚
 *歩行距離は、ガイドブックなどによると歩いて240余里( 960km、40~50日)。車で1200kmと言われているが、今回の地図上の距離は936kmであった。


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(1)長谷観音

 八番札所の長谷寺へは、前日宿泊したJR桜井駅前のビジネスホテルに荷物を置いて、片道一時間半ほどを荷物なしで往復した。身軽なこともあり快適に飛ばしてお寺へは八時ちょっと過ぎに着いた。
 花の寺と言われていることもあり夏の紫陽花を期待していたが、およそ一ケ月遅れということで愛でることは出来ず、花には縁無しであった。
 だが、カイドブックに書いてあったとおり、三百九十九段・百八間の回廊、本堂の造りは素晴らしかった。そして、何よりも観音様のお姿に感動した。
 入口で頂いた案内書によれば、観音様について「本尊十一面観世音菩薩(重文)は御身の丈三丈三尺六分(十米余)光背四丈一尺(十二米余)楠の霊木で顕造せられている我が国最大の御仏像で、現在の御本尊は天文七年(1538)仏師東大寺仏生院実清良覚の作と伝えられています。金色に輝く十一面の御尊顔で、右手には錫杖と念珠、左手には蓮華のある水瓶をお持ちの独特のお姿で、これは観音・地蔵の御徳を併せ持った世に長谷型観音と称される御尊像で、慈悲の深さを表しています」と記載されているが、何と言えばよいのか、文字では表わしがたい感動を受けた。
 真ん前で、しっかりと見上げなければお顔が見えない背丈、金ピカ、髭のあるお顔だけではなく、何か別のものがあった。大きさ・輝きに圧倒されるというのではなく、この大きさ・輝きに観音様の「衆生を救う」と言うか、案内書にある「慈悲の深さ」のようなものを感じたのであった。
 こんな言い表し方が許されるかどうか迷うところであるが、「お母さーん」といった感じである。
 お寺を巡っていて感じたことだが、ほとんどのお寺の観音様が秘仏ということで厨子の扉の中におられる。衆生のお願いを何でも聞いて頂けると言われる観音様が、どうしてお姿を隠しておられるのかよく分からないが、ここ長谷寺の観音様は、それらの観音様の分まで「まとめてどうぞ」といった感じで、大きなパワーを感じた。

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 観音様の大きさということでは、同じ大きさの鎌倉長谷寺の観音様、六番の壺阪寺、大船観音、大谷観音などを拝観してきていたが、これらの時とは違ったものがあった。この違いには、「見る」と「拝む」の違いかもしれない。鎌倉の長谷寺などではワイワイガヤガヤの手を合わせない観光客と一緒であったが、ここ長谷寺は朝早くの静寂の中でお参りは数名、それも熱心な信者の方が経を唱えながら本堂を廻っておられれ、そんな環境が「拝む」「拝む以上」の感情を醸しだしたのかしれない。

 ところで、経を唱えながら本堂を廻っておられた中年男女の、観音様への願いは何だったのだろうか。いったい何回廻られるのであろうか、三十三回か、それとも百回か、私は般若心経一回と一周だけだったが、カウンターを持って真剣に廻っておられる姿には、同年代の者として心打たれるものがあった。
 このお二人が長谷観音のお姿と同じほど大きなお慈悲を受けられることを願いつつ、寺を後にした。

2.観音様と私

miyokakugi.jpg 観音様と私の関わりは幼い頃にさかのぼる。もの心がつく前から父と母に連れられ観音様にお参りに行っていた。
 私の育った故郷は、奥美濃地方と呼ばれ、濃尾平野を潤す三大河川の一つ揖斐川が山間から平野部に流れ出る扇状地にある。裏山の中腹には槍ケ岳開山で有名な播隆上人のゆかりの寺、今は尼寺の一心寺がある。
 この故郷の地には、西国三十三ケ所の巡礼道が通っており、満願の三十三番谷汲山華厳寺へは7Km程である。
 幼い頃の記憶をたどれば、春・夏のお彼岸、お正月の元旦に、家族六人で毎年お参りに行っていた。末っ子の私は母の手に引かれながら、兄達に遅れないように一生懸命歩いていた。
 西国巡礼の最後のトンネルである小野坂トンネルの手前の、明覚寺の薄暗い堂内でユラユラしていたローソクの炎、寒い朝に地下水が湧き出る池から立ちこめていた白い水蒸気、門前で売っていた「ういろう」のサッカリンの甘さ、寺の裏手で滝を眺めて食べた弁当の味、谷汲中学校が見えてきた時にお寺はもう少しだとホッとしたこと、お寺の階段巡りの暗闇が恐かったこと、などなどいろいろ思い出される。
 どうもこれが、西国三十三ケ所観音霊場を歩いて巡る原点になっているような気がする。
 兄達が車で西国三十三ケ所観音霊場を巡っていると聞いた時、私を歩いて巡るように思わせたのは、母の手に引かれて歩いた時の母の手の温もりだったのかもしれない。
 観音様は仏様になる前の仏様と同じ資格の仏様、仏様と人間の間にいて人間を助けてくださる仏様などと親父に教えて貰ったけど良く判らなかった。お姿はどうしても女性、母親に見えるのは昔も今も同じである。
 少年時代になると、観音様にはあまりお参りに行かなくなったが、縁が無かった訳ではない。
 この頃には家の百姓をそれなりに手伝っていたが、白衣を着た爺ちゃん婆ちゃんを乗せた西国巡礼〇〇様御一行の観光バスが、土煙を巻き上げ私に被せ被せて通り過ぎるのを、コンチキショーとブツブツ言って荷車を引いていたことが思いだされる。この頃にこれといった病気をしなかったのは、この土埃りによる観音様の御利益があったのかもしれない。
tanigumiike.jpg 「一人で歩いていると寂しくはないですか?」と時々問われたが、巡礼は「観音様と同行二人」寂しさはあまり感じない。特に、私の場合には、観音様、親父に貰った数珠、母の手の温もりと、「同行四人」のにぎやかさである。
 このようなこと考えると、私の西国徒歩巡礼は巡礼というよりは、幼い頃の観音様への道を、そのまま故郷への道として、同行四人で歩き続けたのかもしれない。
*一心寺に関しては、新田次郎著「槍ヶ岳開山」にも記載されています。
*明覚寺は、現在は100m程車道脇に下られています。歩き道であった旧同寺前の道はほとんど廃道に近い状態です。

3.亀

kame.jpg  和歌山県のJR岩代駅と切目駅のほぼ中間に位置する橋が谷付近で、国道の側溝をノコノコと元気よく歩いている亀を見つけた。 前日の雨に誘われて出てきたのだろうが、側溝からは出られようもなく、このままでは真夏の太陽で日干しになってしまうのでは、と思い助けてやることにした。
 スッポンではないようだが、食いつかれないように慎重に右手で甲羅の真ん中をつかんだら、おとなしく首と足を引っ込めた。15cm程の大きさでズシリとした重さがあった。
 そのまま持って歩き、1km程進んだ所の小川の土手に放してやった。
 朝食の残り物で野良犬にでもやろうと持っていた玉子焼きを、引っ込めた頭の前に置いて少し離れた所からから見ていたら、ゆっくりと頭と手を出してあたりをうかがった後に歩き始めたが、玉子焼きは完全に無視された。そのため玉子焼きを頭の前に置き直したが、前と同じように無視された。

まあ食欲が無いのだろう、と解釈してバイバイすることにした。歩いてきた国道で車に轢かれた亀の干物を見てきたこともあって、国道にノコノコ出かけて車に轢かれるなよと願いつつ。
「助けた亀に乗せられて・・・」ではなが、何か良いことがあるのでは大いに期待していたが、残念ながら乙姫さまには出会えなかった。巡礼の心得に「異性にはたわむれの言葉などをかけない」とあり、乙姫さまに会ってはいけない巡礼の身ではあったが。
 翌日の宿で、玉手箱を開けた後のような乙姫さまが、鯛の付いたお膳を運んでこられたのは、龍宮城の再現だったのか! そう解釈しておこう。
 浦島さんのような色気のある恩返しは受けなかったが、自分達が交通事故に遭わなかったことは、何にも代えがたい亀の恩返しだったのかもしれない。亀さんありがとう。

4.おばあちゃん

nachitaki.jpg 巡礼を始めた初日、JR紀伊浦神駅の手前において追い抜いていった軽四輪がすぐ先をUターンした。そして、運転席からおばあちゃんが出てこられ「お遍路さん、お遍路さん」と呼ばれる。初め何のことかよく判らなかったが、自分のスタイルが遍路と同じであることから自分のことだなと思い、頭を下げ「こんにちは」と挨拶をした
 農業をしておられるのではと思われるスタイルのおばあちゃんは、にこにこして「お遍路さん家に寄っていって下さい」とおっしゃる。「変なことを言うおばちゃんだな」と思っていたが、続けて「ぜひとも家に寄って休んでいって下さい」と言われ、「お接待」だと気付いた。
 お接待は素直に受けるのが「巡礼の心がまえ」であるが、当方は休暇を都合つけての巡礼行で少しでも先へ進みたい欲望から、「せっかくのお誘いですが先を急ぎますので」とお断りした。そうしたら、おばあちゃんは「おじいさんが、あんたが家の前を通り過ぎるのを見て、呼んでこいと言うからこうして車で迎えに来た、ぜひ来て欲しい」とおっしゃる。
この言葉に「ついて行くかな」と思ったが「先を急ぐ」という考えが強くて、「おばあちゃん、悪いけど先を急ぐから」を繰り返しお断りしていた。
 おばあちゃんは、寂しそうな顔をして「それではお接待だけでも」と言いながらポケットに手を入れておられたが、「急いで来たからお金を持って来なかったわ」と言われた後、さかんに「悪いね、悪いね」とおっしゃる。私はこの言葉に恐縮し「悪いのはこちらですよ、わがままいってすみません。いいですから、おばあちゃん長生きしてね」と言っていたが、そう言うのが精一杯であった。
 あきらめて去られるおばあちゃんの車を眺めながら、本当に悪いなと思った。そして、歩き始めてからしばらくは「どうして行かなかったのか」「急ぎだと言っているがこの巡礼には期限があるわけでもなし、まったくサラリーマン根性が抜けないのだから」「死んだお袋と同じ位の年寄りに罪なことをしたものだ」などなど、自己嫌悪で足取りが重かった。
 今でも「行っておけばよかったのに」と思うがどうしょうもない、ただ救いは、おばあちゃんに「身体に気をつけて長生きをしてね」と言えたことであるが、懺悔としてこの巡礼記に残すことにした。

5.小原峠越え

sankakuten.jpg 小原峠の標高はたかだか270m程だが、この峠越えには苦労させられた。その苦労話しを少々。
 湯浅から藤白(海南)へは、有田市経由の国道42号線でなく、拝ノ峠越えの巡礼道を通る予定でいたが、「山道はいやだ」と同行の相棒が言いだしたことから、この道は行かないことにした。
 だが、国道42号線は三角形の二辺を行くことになり遠回りになることから、相棒には「簡単な峠越えだから」と言って、地図の中間に位置する小原峠を越えることにした。
 峠越えにあたっては、登り口に当たる下中島にあったお寺(名前は忘れた)の本堂軒下を借りて二時間程休憩をとった。相棒はグウグウと昼寝をしていたが、私は少しウトウトしただけで昼寝までとはいかなかった。でも、真夏の暑さを避けられたことと足を休めることは出来た。
 二時半を過ぎたことから出発することにしたが、少し歩いたところで前から農業の方らしき人がこられたので念のため道を聞くことにした。
「小原峠の道はこれでよいのでしょうか、峠の道はしっかりしていますか」と聞いたら、「これでよいよ、神社との別れ道があるけどそこを右側だよ、標示を右、右」の返事であった。
「この道で間違いない、標示を右側だ」と意を強くし少し歩き始めたところで、分岐点に出くわした。石碑があって「左○○神社」と書いてあった。「おお、さっきの親父さんが言っておられたとおりだ」と、「右、右」と忠実に右側を進むこととにした。
 山全体がミカン畑で、頂上付近のあちこちではスプリンクラーの水幕が涼しげに白く光っている。道巾は2m程だが舗装されていて「さすが有田ミカンの産地だ、全山これミカンだ」と感心しながら坂道を10分程歩いたところで、歩いている方角が少し違ってきていることに気づいた。
北へ向かうべきなのに北東に向かっている。コース決めは地図と磁石を持っている私の仕事でこういう時は辛い。念のため一人で上の様子を見に行ったが、100m程登ったあたりで道巾が狭くなり、方角も東に向かっていて間違いであることが判った。
douhyojunreikaido.jpg 前の分岐点に戻り左側の道を登ことにした。舗装された巾2m程のつづら折りの坂道を登ったところで、山の尾根の一歩手前の場所にたどり着いた。だが尾根を越える道がはっきりしない。道は尾根とほぼ並行に走っているばかりである。荷物を置いて少し先まで調べたがダメであった。
木々の間から尾根の向こうの空が見えるような感じもするのに、どうして見つからないのかと腹立たしくなってくる。今いる道はコンクリートでパンパンに舗装されている。
 ついに捜すのを諦めて強行突破することにした。「地図によれば尾根の向こうもミカン畑で、道があちこちと走っている。「そんなに長く雑木を押し分け進むことはないだろう」との判断のもとに。
 前面は柿畑で一段高いことから、畑への上がり口を捜すためコンクリートの土手沿いに少し道を戻ったところ、段差の少ない影の場所にペンキで「○○神社」と矢印付きで書いてあるではないか。「ここなのか」と段差を登り歩き始めたが、道なんか何もない。柿畑である。
「どうなっているのだ、道も柿畑にされてしまったのか?」と考えたが、考えていてもはじまらないので進むことにしたが、畑が終ったところで今度は背丈を越すボウボウの夏草が迫ってきた。「さっきの矢印はなんだったのだ、カンニンしてや」と泣が入る。でも進むより他ない。少しでもボウボウでないところを選びながら金剛杖で草を押し分けて進んだ。
 悪戦苦闘して進むこと10m程で、小さな木製の標識を草の中に見つけた。書いてあるではないか「左、〇〇神社」と。なんだー、これなのか、親父さんの言っていた分岐は。と気持を強くして真っ直ぐ押し進ことにした。磁石をみれば北を指していてOKである。
 「マムシさん、出てこないで」と念じつつ、ボウボウを更に20m程進んだあたりで少し小道らしくなり、そして急に左側にお堂が現れた。お堂は正面が一間半ほどの大きさ、屋根を越す樹々に囲まれ薄暗く、まるでお化け屋敷の様相であったが「峠に着いた」という喜びを与えてくれた。なぜなら、古くからの名のある峠には、お堂や地蔵などが置かれているのが常だからである。
 格子戸越しに薄暗い堂の中を見たら、仏座像が三体おられた。塗りは少し剥げていたが目だけが光っており恐い感じがしたが、手を合わせて後にした。
 お堂からの道は通り易く少し歩いただけで地図にある道に出た。この道は舗装がされていて、これで難行苦行の峠越えは突破できた。
 この道に出たところで小休止をとったが、地図を眺めながら「30分ちょっとで峠越えが1時間以上もかかってしまった。こんなことなら国道を行ったほうが早くて楽だったな」と思ったが、口には出さなかった。相棒が足に出来た引っかき傷に薬を塗っていたから。

6.通円茶屋

tuenchaya.jpg 10番三室戸寺まであと一息のところ、宇治川に架かる宇治橋の橋際にある通円茶屋において、ガイドブックの薦めもあって団子と薄茶で一服した。
 白装束のスタイルであったことから、店内のテーブルでなく店前の藤棚の下の赤い毛氈の縁台でいただいた。代金は480円であった。
 一日歩いて疲れていたせいか大変美味しかった。若い頃にほんの少し裏千家のお茶を習ったことがあったが、お湯加減も丁度でこれまでに味わったことのない甘さ、香であった。
「お茶の本場宇治」といった感じを受けた。
 店先に置いてあったお店のパンフレットによれば、現在の店舗は三百二十年前に建てられた江戸時代の貴重な建造文化財とのこと、そして足利義政、豊臣秀吉、徳川家康もこの店でお茶をいただき一服したとのことであるが、寺院の大伽藍と異なり道ばたの民家という感じで、庶民レベルの歴史を感じさせる場所であった。
 またパンフレットに「宇治橋とともに守り続けた、830年ののれん、宮本武蔵もお通さんも休んだ茶屋、名物茶だんごを味わいながら、宇治茶を一服召し上がれ」と書いてあったが、なによりも気楽に一服出来たのがよかった。


7.女子学生
 箕面滝から箕面駅への川沿いの遊歩道で、三人連れの女子学生に呼び止められた。
「すみません写真を撮って下さい」の言葉にニコニコして(巡礼は親切なのだ、特に女性には、観音様なのだ)渡された使い捨てカメラのシャッターを切ってあげた。写し終わって歩き始めようとしたら「何をしているのですか?」の質問を受けた。
 スタイルがスタイル、巡礼のほぼフル装備なのだから、変なオジサンとばかり質問を受けるのは当たり前かもしれない。
「巡礼です、由緒あるお寺を歩いて巡っているのです」と答えたが、彼女達はキョトンとしている。そこで「キリスト教のパレスチナ巡礼とか回教のメッカ巡礼を知っている」と言ったら、知っているというので、「あれと同じで、日本にも巡礼のシステムは在るのだよ、代表的なのは、近畿を中心にした西国、関東の坂東、埼玉県の秩父、四国の四国遍路。ここ西国には三十三の観音霊場が在り、歩いて巡っているの、全部歩けば千キロ程よ」と学校の先生になっていた。

douhyohokeji.jpg あれこれと話している間、彼女達が真面目な顔をしているものだから、ついつい調子に乗ってしまい、今度はこちらから質問し本格的な講義になった。
 「ところであそこに見えるお寺(日本四弁財天の滝安寺だったと思うが)には、お寺なのに鳥居が在るけどどうして?」。
彼女達は少し考えていたが「分かりません」。
「日本史で習わなかったの、江戸時代までの神仏混合と明治の廃仏毀釈」と説明。
「分かりました」と素直な彼女達。
「ところで、仏教の教え・言わんとしていることは何?」
「・・・・・・」の彼女達。
「これは私が本を読んだ範囲の知識だけど、キリスト教は一般にラブ、愛を教えているようだが、仏教はこの愛の他にもう一つプラスアルフアーが在るようだ。だけどこの答えは教えてあげない。大学生なのだから自分で勉強しなさい。「ヒントは私の背中だよー」
と宿題を出して別れた
 別れて少し歩いたところで、「アーアー少し調子に乗りすぎちゃった」と自責の念。
 ところで、私しの背中には「南無大慈大悲観世音菩薩」と書いてありました。

8.名産品

rokakudo.jpg 歩いていてその地域の名産品というかローカル色に触れられることは、楽しみの一つである。
 歩き旅ではじっくりと肌で感じられる。
 特に、中学生時代の社会科で習ったような事だと、それはもう感激である。
 思い出すと色々あるが、印象に残ったものを挙げてみる。
・和歌山県太地
 黒潮が流れる潮岬に位置し、昔は近海捕鯨が盛んであった。これを記念した鯨館があり見学をした。
・和歌山県紀伊由良付近
 味噌の元祖の地で、国道に面しての売店の多さに驚ろかされた。興国寺がある。
・和歌山県湯浅の小原峠付近
 有田みかんの産地で、山全体がみかん畑である。農道はコンクリートで舗装され、土手も綺麗な石積みされていて歴史を感じさせられた。
・奈良県桜井市
 工場から流れ出たと思われる素麺が道路の側溝を白くユラユラゆれていた。これを何箇所かで見た後に「そうだ三輪素麺の産地なのだ」と気づいた。
・奈良県天理市
 天理教の本山が在り立派な宿と黒法被の関係者の姿が目立った。門前町でなく宗教都市である。
・京都府宇治
 宇治茶の産地で、宿のお茶にも抹茶が入っていて美味しかった。宇治橋際の通円茶屋での一服は、830年の「のれんの味」がした。
・兵庫県生野
 生野銀山で有名なところであるが、普通の田舎町と同じで銀山の面影はなかった。
・京都府加悦町
 丹後ちりめんの産地で、織機の音がガチャガチャとリズムカルに聞こえた。
・福井県若狭地方
 原子力発電所の銀座通りと言ってもよい程の電気の産地である。美浜、大飯、高浜の原子力発電所で関西で使う電気の半分が発電されているとのこと。立派な体育館・グランド、老人ホーム、駅などなどなど、が軒並みに建っていた。
同行していた相棒が「どうしてこの町にはお金があるの」と尋ねたので、電源立地助成金の話しをした。宿のおばちゃんが「又、あそこで建てているよ」と話してくれたが、宿代は部屋の狭さと設備の割には高く、原子力に悪乗りの割増料金であった。

9.団扇(うちわ)

douhyonakayama.jpg 暑の歩き巡礼に団扇を持って行くと、意外にも役に立つことから「お勧め」である。
  「左団扇」ではなく、虫除けの団扇である。これは四国遍路の時に涼しさを得るために使っていて、意外なところでの使い方があること気づいた。生活の知恵といったところであろうか。
 山の上の寺を目指して林の中の道をハアハアいって登っていると、汗の匂いを嗅ぎつけてなのか蚊やアブがワンサカ寄って来る。日差しのある所ではそんなでないのだが、日影のヤブのような所では蚊が10匹や20匹どころではない。
 これをバタバタと追い払うのであるが、直撃音の「パチ」が聞こえた時には「南無阿弥陀仏」である。
 団扇は普段はリックに入れておいて、このような時にだけ使うのだが、涼しい風を得ることも出来まさに一石二鳥である。成相寺の登りでは必需品であった。
 ところで、蚊の話しを一つ。
 台風接近の風の強い日に藪に面した道(国道)を歩いていて、トンボの重爆撃機と言われる鬼ヤンマがワンサカと飛んでいるのに会った。当方にぶつかりそうになると器用に避けていく。
よく観察したら、強い風により藪から吹き流される蚊を狙って集まって来ているようである。私の目にはゴミか蚊なのか判別出来ないが、鬼ヤンマはしっかりと見分けて確実に捕食している。
 スイスイと飛ぶのではなく、器用にホバーリングしていて蚊が流されてくると急角度で飛びついて行く。この動作は爆撃機でなく戦闘機である。
 台風接近の強風のこの日は、蚊にすればとんでもない仏滅、鬼ヤンマにすれば大漁ということになるが、私には台風という大型扇風機の風を受けての涼しい歩きになった。

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