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西国観音霊場てくてく巡礼記(思い出 2/2)


10.冷房

tonneru.jpg 真夏をはじめ暑い日の、特に車がバンバン走っている国道の歩行は疲れる。
 汗を流しヨレヨレになって歩いている時に、クーラーを効かせた車が排ガスをかぶせて通り過ぎて行くと、精神的にもくたばってくる。
 暑い中を好きで歩いているのであるが、クーラーが当たり前の日常生活をしている身には、まさに「温室から出された花」と同じで、頑張りがきかなくて泣きが入ってくる。
 振り返って見ると、一種の熱中症にも似た状態と言うか、身体全体で息をし始めながら「もう駄目だ」と日影やクーラーの効いたレストランやスーパーに駆け込んだこともあった。
 平成10年9月の巡礼行は暑い時期を避けたにもかかわらず予想外の残暑に痛めつけられた。
 「9月だからそんなに暑くない」という先入観のもとでの、30度を越える炎天下の歩行でバテバテになってしまった。出発前から身体が本調子でなかったのと、2日目からお腹の調子も悪くなり本当に辛かった。この時はちょうど2日目の泊まりが兄貴の家であったこともあり、3日目はまる一日の居候を決め込んで体力の回復を図かることにした。
 いずれにしても、身体が疲れている時は、暑さが身体に与える影響は大きいようだ。子供のころに母親に「寝不足すると暑さ負けするから早く寝なさい」と言われたことが思い出された。
 ところで、車にクーラーが入っているのが当たり前の時代であるが、クーラーの入っていない車を見た。それは自衛隊の車である。
 若狭の小浜から熊川宿への国道で、隊員、野砲、燃料タンクなどなどを乗せたり引っ張ったりした自衛隊の車両が、十数台連ねて追い抜いていったが、どれにもクーラーは入っていなかった。
 戦争になれば暑い寒いのなんて言っておれないのだから、日頃からの訓練と言えばそれまでだが大変なことである。指揮官車のジープにも入っていなかったけれど、隊員輸送用の車両にはクーラーを入れてあげてもと思った。

11.義民 松木庄左衛門

kumakawashuku.jpg 若狭から近江今津への若狭街道(国道303号)沿に熊川宿がある。
 福井県と滋賀県の県境の近くに位置し、この宿場町に残っている只一軒の「菊屋旅館」に泊まった。
 ここに泊まることにしたのは、近江今津港から竹生島行きの船の時間(11時10分)から逆算して、早朝に出発すると丁度よい時間になるからである。
 地図では「熊川」としか表示されていないが、古い宿場町であることを到着してから知った。この宿場町には15時頃に着いたことから、シャワーで汗を流した後に町を見学することにした。
 ところで、この宿場町は「重要伝統的建造物群保存地区」指定のもとに町並みの保存が進められていて、町の中央部付近に「若狭鯖街道熊川宿資料館、宿場館」もあった。
 宿場館で頂いたパンフレットによれば、
・宿場町の誕生について、
 秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政は、天正17年(1589)に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、諸役免除して宿場町としました。この政策はその後の代々の領主、藩主にも受け継がれ、最初40戸ほどの寒村が200戸を越える町となり繁栄しました。
・若狭街道(鯖街道の主要ルート)について
 古くから若狭街道は、海産物のみならず小浜に陸上げされた日本海諸国の物資を、京都方面に運ぶ重要な道でした。なお、この若狭街道は、西国霊場の29番札所松尾寺から30番宝厳寺への巡礼の道でした。享保8年(1723)7月25日には422人、前後3日間では1,000人の巡礼者が熊川に宿泊したことが「御用日記」に明記されています。
ということである。sabakaido.jpg
 偶然ではあるが、巡礼に関係のある良い宿場町に宿泊出来た。これは、宿の奥さんをはじめ皆さんの家族的な温かいもてなしもあってのこと。
 ところで、この町を少し痛い足を気にしながら見学をしていたら、義民を祀った神社があった。鳥居の前から簡単にお参りしたが、ここに説明立札があったことから紹介する、
 「松木神社。関ヶ原の戦いのあと若狭の領主となった京極高次は小浜湾に望む雲浜の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増額とか労役の提供など多くの負担がかけられたが、特
にそれまで一俵が四斗であった大豆年貢が四斗五升、または五斗入に増額された。そしてこの制度は領主が酒井忠○になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。苦しみあえぐ百姓たちは、年貢引下げの嘆願運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩ではまったくこれを聞き入れなかった。捕縛投獄の抑圧にも屈せず、あくまで年貢軽減を訴え続けた上中郡新道村庄屋松木庄左衛門は、慶安五年(1652)五月十六日ついに日笠川原で磔の刑に処せられた。しかし、悲願は聞き届けられ大豆年貢の引下げは実現した。時に庄左衛門は二十八歳の若さであった。義民の遺徳を永久にあがめ拝し奉るために、昭和八年ここに松木神社が建立された。」
 私は生まれが百姓だからこのような話しには弱い。
 私の田舎にもこれと似たような話しがある。私財を投げうって治水に努めた岡田さんを祀った三霊神社である。親父を手伝って氏神様達の門松を飾っていた時に、この神社だけ門松を飾らないことから、「どうして」と親父に聞いたら、「岡田さんは治水の仕事で正月はなかったから」と聞いて、いたく感動したものだった。
 このような義民の話しは、千葉県の佐倉地方にもあり芝居で演じられたこともあるが、何時までも大切に語り続けていきたい話しである。
 ところで、この神社は昭和八年の建立で、軍国主義の高まりの頃で少し気になるが、義民の話しは話しとして率直に受け取めておくべきであろう。

12.勧誘

sionomisaki.jpg 巡礼中に休憩のため道端で休んでいる時に宗教の勧誘を2回受けた。その一つを。
 姫路の少し手前の豊国という所で、足の裏の豆を気にしながら靴を脱いで休んでいたら乗用車が停った。中から2歳位の子供を連れたご婦人が出てこられ「何をしているのですか」の質問を受けた。
 「巡礼です」と回答するとともに西国巡礼の地理的内容を説明したら「大変ですね。私は○○会のものですが、そんなに苦労し修行しなくても幸せは得られますよ」との言葉。そして経典らしき本を広げられ○○○様はこう言われています。と本の内容を読み上げられた。
 私は、○○の会については「病気や怪我をしても輸血を拒む宗教」という程度の知識しか無かったし、昔から他人の宗教を否定はしないが、自分のことに干渉をされたくないので「別に修行のために巡礼をしている訳でなく、好きでやっているのです。そして私はお子さんと同じ歳頃からお寺参りをしていたし、50歳を過ぎたこの歳で宗教を代える気はありません」とハッキリ言ったが、「50歳過ぎても大丈夫です」とのお勧めである。
 「救って下さるのは○○○様だけです」というような言葉も出たが、日本は「八百万の神なのだ」と思いながら「疲れていますので一人にして下さい」と言ってお引き取りを願った。
 

13.お接待

arukearuke.jpg 巡礼中にお接待をいただいた。
 白装束の巡礼スタイルによるものであろうが、頭の下がることである。
 地図を頼りに思い出してみると、
 ・和歌山県海南港付近  200円  おばちゃん
 ・槇尾寺の茶店     昼食のお茶漬け  おばちゃん
 ・兵庫県JR生瀬駅先  150円     おばちゃん
 ・京都府神懸峠     飴1袋      おばあちゃん
 皆、おばあちゃんである。
 これらはカタチのあるものであるが、カタチの無い温かいお接待も沢山いただいた。
 最も多いのはやはり道案内・旅館の案内である。初対面にも係わらず多くの方に面倒がらずに丁寧に教えていただいた。
 次に多いのは旅館、食堂などでの親切である。宿代をサービスしていただいたり、洗濯用の洗剤を無料で頂いたり、疲れているだろうと食事を部屋まで運んで下さったりである。何といっても皆さんの笑顔に迎えられ送られたことが一番の励みになった。
 「車に乗って行くか」と声を掛けられることもあった。この言葉には丁重にお断りして歩き続けることとしたが、お断りするたびに「相手に気まづい思いを抱かせているのでは」と気をもんだ。
 歩いていて、歩いている人に出会うと「今日は」となるべく挨拶をするようにしていたこともあり、短い会話を交わすこともあった。この会話で一番多かったのは、「お遍路さん」であった。専門的には「遍路」と「巡礼」の言葉を使いわけされているようだが、一般の人から見ればどちらでもよいことかもしれないし、何といっても四国遍路が盛んなせいであろう。
 中年の太ったおばちゃんとの短い会話の中で「富士登山ですか」と例外的な問いかけを受けたこともあった。西国巡礼について簡単に説明したが、おばちゃんはポカンとした感じであった。このおばちゃんは「身体の調子が悪くて診療所へ薬を貰いに行く途中である。糖尿で血圧が高い。そして健康保険が切れてしまう」などの身の上話しがあった。
私しは「歩きなさい、歩きなさい」とアドバイスをした。そして別れ際にも「お大事に、歩き、歩きよ」と言ったが、彼女はどの程度理解されたのだろうか。薬師観音のお慈悲を願って止まない。
 多くの温かいお接待に私の出来るお返しは、皆さんの健康・長寿の願いも合わせて観音様に手を合わせる事であった。

14.瑪瑙(メノウ)

chichibuzimaken.jpg 若狭湾の小浜から熊川宿への国道27号線は、歩車道の区分がなく車の量も多いことから、これを避け平行している旧道を歩くことにした。
 JR小浜線東小浜駅のある遠敷(おにゅう)という古い町並にさしかかったところで、軒下に「若狭瑪瑙加工所」という看板を掛け、玄関先に商品を並べた小さな店があった。
 「あれ、若狭でもメノウが産出するのか?」と思うと共に、昔かしテントを背負っての北海道旅行で、例文島の海岸で白いメノウの原石を拾ったのを思い出した。そして「手ごろのものがあったらワイフに買っていくかな」と思った。
 これまで「遍路、巡礼は物見遊山の旅行ではない」という私しなりの理屈のもとに、土産物を持ち帰ったことがなかったのに、この時だけはなぜか異なっていた。きっと四国に続いての百観音巡りも終盤になり、これまで気持ち良く送り出してくれたワイフに、「ありがとう」という気持ちが醸し出してきたのかもしれない。
 入口のドアーガラス越しに商品の陳列ケースが見られたことから、ドアーを開け中に入り「ごめんください」と言ったが誰も出てこられない。
 大きな声で「ごめんください」と繰り返しながら店の中を見回したら、正面に沢山の表彰状が飾ってあった。古いのは明治10年の「内国勧業博覧会、大久保利道」、新しくは高島屋大阪支店のものである。「明治10年と言えば西南戦争の頃で、この店は由緒ある店なのだ」と思っているところで、品の良いおばあちゃんが杖を頼りに出てこられた。
 品物を見せて貰いながら大久保さんの賞状のことや、自分がどうしてこんな白装束なのかなどの話しをした。話しの中で失礼とは思ったが「どうして杖を」と聞いたら「脳梗塞で倒れたがリハビリの結果ようやく歩けるようになった」とのこと。
 「杖が必要でも歩けるようになって良かったね、自分でトイレへ行けるんだから良かった、良かった」とあたかも自分のお袋に話すように話しかけていたが、これはおばあちゃんが私の亡きお袋と同じ位の歳であったためであろうか。
 少しして旦那さんも出て来られ少しお話しをしたが、話題はやはり大久保さんの賞状のことで、分かったことは、「時の政府は外貨獲得のために殖産振興に腐心していた」ということ。
 ワイフのブローチと自分のカフスセットを求めたが、おばあちゃんが「お賽銭代わりに安くしておく」と言われ大変なサービスをしていただいた。
 それが気になったこともあり東京に帰ってから、礼状に同封し長命寺と坂東33番那古寺のお守り・四国遍路記を送ったら丁寧な返事が届いた。若い兄ちゃん(同行していた相棒)に感心したと立派なカフスセットも同封されていた。相棒は丁度就職をする前であったから良い記念になった。又手紙の書き方が亡き母と似ているような気もした。
matuoji.jpg 聞いた話しや品物に同包されていた説明書をもとに、若狭メノウに関しての話しを少々。
 まずは説明書の内容。「日本最古の歴史を持つ若狭瑪瑙は、享保年間に至り高山喜兵衛という人が浪速(大阪)へ出て眼鏡屋に奉公中、レンズを磨くことを習い、帰郷の後、この技術を応用して丸玉づくりをはじめました。
 その後明治初年に至り、中川清助なる人が玉作りのみに飽きたらず、技術の改良に腐心して遂に美術工芸品の彫刻法を案出し、併せて販路の開拓を図り内外各地の博覧会に出陳してその都度褒章の栄に浴するに及び、若狭瑪瑙の名声は益々高まり遂に昭和51年には通産大臣より伝統的工芸品として指定を受け、日本内地は元より、遠く海外にまで好評を博するに至りました。
 当龍玉堂は慶応元年に前記初代中川清助が創業以来百余年、代々その伝統を守と共に、更に技術の向上、デザインの研究を積み重ね現在では原石も瑪瑙・水晶に止まらず、遠く海外よりも各種宝石・貴石を輸入、その作品も仏像・香炉・盃・動物類置物・及びブローチ・イアリング・ネックレス・帯止・指輪など装身具に至まで多様に亘っております。 尚弊店は先代以来伊勢神宮・平安神宮のご神宝を謹作の光栄に浴し、昭和46年には"現代の名工"として選ばれ労働大臣より表彰を受けました。この栄誉に応えるべく作品一つ一つに心を込め、磨きをかけて製作いたしております。・・」
なお、現在は若狭では瑪瑙の産出はなく、海外の原石を使っての加工が主体で、瑪瑙だけでなくいろいろな種類の原石を加工しているとのことであった。
 私の机の前に、おばあちゃんから頂いた瑪瑙原石で作った小さなカエル(無事カエル)が置いてある。これを見るたびに、おばあちゃんの笑顔を思い出す。

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15.お地蔵さん
 沢山のお地蔵さんに会った。杖を持たない方の手を挙げてお祈りの仕草をしながら通り過ぎることがほとんどであったが、お会いするとなぜか気が落ち着いた。
 村や町の境界、道の交差点、峠などで、お独りだったり、六地蔵だったり、立派なお堂の中だったり、風化してお姿がなくなりかけていたり。
 おやっと思ったのは、京都付近のお地蔵様の多くが綺麗に化粧をされていたことである。真っ白なお顔、紅のお口、黒墨の眉や目、赤の光背、黄・青・緑の衣装などで本当に綺麗であった。これは都人(みやこびと)達の美意識による地域性なのであろうか。それとも化粧をされた方の、何時までも美しくありたいという願いなのであろうか。それとも、女性を綺麗に化粧し野辺に送る風習と同じなのだろうか。

zizokyoto.jpg ところで、お地蔵様の由緒などを説明をした立て札が在る場合もあったが、感動したものを一つ紹介したい。
 場所は滋賀県の14番三井寺から京都方面に向かい30分程歩いた場所で、北国街道の小関峠の頂きにあるお地蔵さん。その内容は、
 「峠の地蔵さん」 ここは北国街道、京都から近江路を湖北に通ずる小関峠の頂きに安置されて居る御地蔵さんのお堂です。(喜堂: よろこびどう)なんと素晴らしいお堂の名称でしよう。そのルーツの詳細は知る由もありませんが、十数年前大津に通じる道路の拡張工事が行われた際、叢に放り出されて居た御地蔵さんを見つけて今の地に安置されました。それよりこの人里離れた峠へ毎日供花をかかす事なく、近郷近在からのお詣りも絶えず、延々数千人の方々の一円からの御奉謝により、ここに立派なお堂が建立されることになりました。皆様の心が一つになって建立された喜びを忘れずお堂の名称としました。末永く庶民の暮らしと交通の安全をお祈りいたします。 峠の地蔵さん保存会一同」。
 この説明を読んで、この地域に住む人の心の温かさを感じた。何時までも大切にしたい日本人の心である。

16.善根宿

zenkonyado.jpg 普通の家に一泊させていただいた。善根宿である。
 丹波の生野から和田山に向かって歩いていて、上岩津あたりから宿をさがし始めたが見つからない。旅館そのものがないからである。
 3月末で5時をぎ少々薄暗くなってきたこともあり、少し焦りながら「暗くなっても見つからなければ、道と平行し走っているJR播但線で和田山へ出て泊まるか」「場合によっては寺か神社の軒下にでも泊まるか。(寝袋は持っていた)」と考えながら歩いていた。
 しばらくして電柱に登り作業している親父さんがおられたので、旅館か泊まれそうな寺でもないかを聞くことにした。
 「今日は! この近くに旅館か泊まれそうな寺がないでしょうか」と聞いたら、「この辺りには無いよ、和田山まで行けば在る」との返事。さらに、「俺の家に泊まっていけ、嫁さんも丁度居ないから」との言葉。
 これには驚いた、こんな世界がまだあることを。この驚きのせいか反射的に「いいですか?」と言ってしまった。
 「泊まれ、泊まれ、遠慮しないで」という言葉に引っ張られて玄関の敷居をまたいでいた。玄関横に繋がれた猟犬二頭の吠え声に迎えられて。
 建てたばかりの柱の太い立派な家で、汚れた靴下を脱いで上がったら、座敷に背の高さ位の大きな金ぴかの仏壇があった。
 小さい時から「よその家にお邪魔して仏壇があったら、挨拶代わりに先ずお参りを」と教えられていたこともあり、親父さんに許しをいただきお参りをすることにした。
 宗派を聞いたら私の宗派と同じ浄土真宗とのことで、置いてあった経本を広げ教信偈をあげることにした。
 この教信偈は小さい頃に家で習っており暗唱出来る程で、そのこと自体は全然問題なかったが、一日歩いてパンパンになった足をだましながらのおよそ30分の正座は「参った、参った」で、立つ時には両手をついてで少し時間がかかった。
 「何処からきた、何処行く」などの質問に答えたが、話しの中でご家族のお話しも出た。
 奥さんは病気で入院中。親父さんは数年前に勤めを辞められ今は専業農業とのことで、この点では話しが合った。私は百姓生まれだからで、そんなことで名刺の交換までした。
tanigumizori.jpg ところで話しが一通り終わったところで親父さんが「俺は出かける、風呂に入り飯を食って適当に寝ろ」との言葉とともに、ご飯とおかずの位置、風呂の沸かし方を教え、さらには「飲めるんだろ」と言いながら一升瓶を私の傍に置いて出かけられてしまわれた。
 そのような状況のもと、テレビを見ながら様子見をしていたが、親父さんはなかなか戻ってこられず、仕方なくて一人で食事し風呂を沸かして入った。
 何を食べたかは忘れてしまったが、よその家で勝手に電気釜の蓋をあけて食事することは、気が引けてあまり美味しくなかった。風呂は材木の匂いがしっかりとした。浴槽はステンレスであったが、椎茸栽培用の木を浸たすのに使ったばかりとのこと、これは翌日に聞いて分かったことである。
 その後は炬燵で横になりテレビを見ながらウトウトしていたが、9時を過ぎても戻られず少し不安がつのった。戻られたのは10時過ぎであった。
 「飲めるんだろう、飲め飲め」のお勧めのもと、コップ酒をなめるだけにしながら1時間程お話しをした。会社での話し、百姓の現状問題、猪が畑を荒らす話し、猟犬の話しなどなど。
 11時頃になって「明日の朝が早いので」とお願いし会話を終え寝ることにしたが、親父さんが勧めてくれたのは親父さんが寝ておられた布団であった。「私しは炬燵でよいから」と断ったが、結果して男の匂いのする親父さんの布団に寝た。
 朝は6時に起きたが、親父さんが朝食を準備し待っておられた。味噌汁まで作ってである。これには頭が下がった。
 美味しい朝食を食べた後に、仏壇にお参りして出発することにした。
 「お孫さんにオモチャでも」と少しばかりのお礼を仏壇の前に置き、それから玄関で親父さんのリクエストに答えて写真を撮った。写真を撮る間猟犬が唸っていたがワンワンとは吠えなかった。
 思い出して見ると、本当に貴重な経験の一晩であった。
 親父さんが家の前の道まで送りながら、「仕事に疲れたら俺の家に来て百姓でもやれよ」と言われたが、この言葉は観音様の言葉だったのかもしれない。

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33番華厳寺 精進落としの鯉

<西国・坂東・秩父百観音巡礼、四国遍路の満願を感謝して>

 満願の西国33番華厳寺、これまでのように般若心経を唱えていると、何かがグググと身体の芯からこみ上げてきました。
 それは感激だったのでしょうか、それとも法悦だったのでしょうか。

 何かが変わりました。この「てくてく巡拝」で。
 初めのころは手を合わせながら「家族が健康でありますように」「無事歩けますように」などなど、あれこれと現世のお願いをしていただけだったけど、何時からかは静かな心でただ手を合わせるだけに、そして、その後は「ありがとうございます」になってきました。

 サラリーマン生活の中での休暇を工面しての「てくてく歩き」でしたが、思い出がいっぱいです。雨の道、雪の道、霰の道、真夏の道、強風の道、ぽかぽか陽気の道、花咲く道、迷った道、車にビクビクした道などいろいろありました。ただ「てくてく」と歩きました。足の血豆がつぶれて頭の心までズキズキしたこともありましたが、それも思い出。「てくてく歩き」は、「歩く座禅」だったのかもしれません。

 巡礼、遍路で感じたのは人の親切です。感謝・感謝です。観音さまやお大師さまはお寺だけでなくて道中にこそおいでなのです。沢山、沢山、千手千眼観音なのです。
 「おはようございます」の小学生の元気な挨拶に、老人会による花いっぱいの道に、その土地の暖かさを感じました。

 亡き両親、義母、友の供養の願いを込めて、西国と秩父は親父がくれた数珠を手に、こだわりの一杖一笠の白装束で歩きましたが、初めは恥ずかしく思いました。でも、巡礼姿を見るのは本当に久しぶりだと、両親と同年代のおばあちゃん二人に涙を流して喜んでいただけました。

 一夜の宿をいただいた家では、大きな仏壇の前でご先祖さまに経を唱えたら、親父さんが「ありがとう」と言われました。道端のお地蔵さんやガードレールの花瓶の主にも歩きながら手を合わせました。
 あの世の皆さんが、観音様の膝元で幸せであることを願っています。

 最後に、皆さんのご健康をお祈りしております。
 合掌

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・四国遍路八十八ケ所  昭和60年~平成4年
・秩父三十四ケ所    平成2年~平成3年 
・坂東三十三ケ所    平成3年~平成9年
・西国三十三ケ所    平成2年~平成16年 (最後の6年間は都合により中断)
 (写真は京都府 清水寺)

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